赤塚・佐潟周辺

最終更新日:2018年7月11日

「赤塚ガイドブック~まち歩き&砂丘歩き~」を発行しました。

赤塚地域や佐潟の魅力発信を考える有志で結成された「赤塚・佐潟地図研究会」により、地域の魅力満載の「赤塚ガイドブック」が完成しました。
「赤塚ガイドブック」には歩いて巡るまち歩き・砂丘歩きのコースや様々なコラムが掲載されています。
ぜひ、ガイドブックを片手に、歩いて赤塚・佐潟の魅力に触れてみてください!
ガイドブックは西区役所、佐潟・水鳥湿地センターほか、区内公共施設で配布しています。
※下記よりPDFもダウンロードできます。

史跡・名所

佐潟

佐潟

佐潟は上潟と下潟の大小2つの潟から成ります。昔から漁業やレンコンの収穫など生活の場として利用されてきました。1996年、ラムサール条約湿地に登録。白鳥をはじめ多くの野鳥や夏の水生生物など、四季折々の自然風景が楽しめます。

潟端の道標

潟端の道標

五輪塔の形をした道標で「天保十年十月、三十八代日妙」と刻まれています。1839年に山崎の庄屋の伊藤家により建立。「右ハゐがた 西かくた道」「願主伊藤」の文字があります。

三句碑

三句碑

江戸時代、「奥の細道」で松尾芭蕉が通ったと伝えられ、その門下の人たちによって建てられました。また、赤塚出身の美濃派の俳人である桂庵誠雄、田鶴庵鶴友の句碑が並んでいます。

屁っぷり坂

屁っぷり坂

江戸中期の開削された坂道。当時は現在より急な坂道で、登るのに切なくて思わず屁が出てしまったことから呼ばれています。

渡辺嘉助の碑・石黒家墓地

渡辺嘉助の碑・石黒家墓地

大庄屋の石黒家の家宰であった渡辺嘉助の石碑。戊辰戦争で新政府軍の奥平謙輔が石黒家に滞在し、633名が赤塚に駐屯しました。渡辺嘉助が馬や食料、宿の調達準備などを行った功績から、村の本百姓に認められた記念に嘉助が建てたものです。階段をのぼった先には石黒家の墓の一部があります。

赤塚神社

赤塚神社

赤塚の村社。毎年4月15日には赤塚太々神楽が奉納され、新潟市の無形文化財に登録されています。現在の社殿は1911年に再建されたものです。

大慈寺

大慈寺

曹洞宗、護国山大慈寺。1604年大藪に建てられた石黒家の菩提寺がこの地に再建されました。山門には戦艦陸奥の遺材で造られた鐘があり、現在この鐘を鳴らして戦没者の供養をしています。

石黒家屋敷跡

石黒家屋敷跡

石黒家は赤塚近隣の村々13村(赤塚組)を治める大庄屋(割元)で、集落整備や「乳の潟」開拓などを行い、江戸時代の赤塚の基盤をつくりました。石垣の上には街道に沿った長屋門を有した屋敷があったことから権威の高さを表していたと思われます。

中原邸

中原邸

明治時代の赤塚を代表する大地主の屋敷です。明治11年9月16日は、明治天皇が北陸東海御巡幸時にご昼食をお召しになられました。現在もその部屋が残されており、県内でも数少ない当時の状況全てを残している明治天皇行在所です。普段は非公開ですが、毎年春と秋に一般公開が行われています。

遠藤実碑・歌碑

遠藤実碑・歌碑

戦時中に東京から内野へ疎開していた遠藤実氏は、年季奉公の途中、17歳で越後赤塚駅から出奔して上京しました。初ヒット曲「お月さん今晩わ」は出奔前夜の砂山から見えた月に語りかけた様子を元に作られた作品です。

赤塚100問

赤塚・佐潟の町並・歴史・自然を楽しんでもらうため、地域の方と国際情報大学の学生がワークショップを開催し、協力しながらクイズを作成しました。
今後「100問」を目指して少しずつ更新していきます。お楽しみに!

例題

「へっぷり坂」の名前の由来は?
1.兵隊がたくさん通ったから 2.両側に塀があったから 3.屁が出るほど急な坂だったから
※答えはこのページにも掲載されています。(探してみてください!)

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〒950-2097 新潟市西区寺尾東3丁目14番41号
電話:025-264-7610 FAX:025-260-3899

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