名誉市民 - 合併した市町村の名誉市町村民

最終更新日:2012年6月1日

旧黒埼町名誉町民

昭和36年11月13日認定

松井 廣(まつい ひろし)
明治19年6月13日生
昭和36年11月25日没

 黒埼村議会議員に3度、また、黒埼村長に4度就任し、黒埼村の産業・教育などの進展に尽くしました。特に昭和28年の村長就任以来、村の産業文化の向上、住民福祉の源泉と確信し計画を進めた上水道事業は、後に村自治体として全世帯普く完全給水し、このことは全国的にも例を見なかったものです。

昭和58年3月28日認定

岡田 幸平(おかだ こうへい)
明治29年12月5日生
平成4年9月28日没

 大正15年黒埼村助役に就任し、以後村議会議員、村長等を歴任。昭和13年には新潟県議会議員となり、昭和46年まで連続8期をつとめ、この間、第38、39代議長にも就き、県政の発展に尽くしました。また、新潟電鉄株式会社取締役及び新潟交通株式会社監査役として交通運輸事業の発展に尽力し、中之口川沿線市町村を中心とした地域の発展に寄与するとともに、新潟県土地改良協会長等にも就任し、県の農業振興に大きく貢献しました。

昭和60年9月9日認定

鷲尾 貞一(わしお ていいち)
明治42年10月22日生
昭和60年9月9日没

 昭和10年明治大学政治経済学部卒業後、黒埼村教育委員会副委員長、黒埼村助役等を歴任。昭和28年から西蒲原土地改良区理事となり、以降、同理事長、新潟県土地改良事業団体連合会理事長、全国土地改良事業団体連合理事に就きました。また、土地改良制度研究会の委員として制度の創設、改善及び土地改良法改正等に尽力し、全国的にも高く評価されています。水と土に心血を注ぎ「和を以て水を治む」という行動理念のもと、土地改良にその生涯を捧げました。

平成11年9月26日認定

武田 武夫(たけだ たけお)
明治45年7月20日生
平成11年9月26日没

 昭和22年から黒埼村助役として2期、黒埼村長として3期つとめ、豊かで調和のある村づくりと教育・文化の向上に貢献しました。その後、昭和46年には新潟県議会議員となり、平成3年まで5期をつとめ、昭和61年7月には議長となり、県政の発展と住民福祉の向上に尽くしました。

旧白根市名誉市民

昭和51年3月27日認定

加藤 清二郎(かとう せいじろう)
明治31年4月8日生
昭和57年9月24日没

 明治31年、白根町能登に生まれ、白根尋常高等小学校を卒業後、大正13年に25歳で東京・神田に「簡易食堂」のノレンを掲げた須田町食堂を創業。太平洋戦争の戦火によって89店舗のほとんどを失ってしまうという苦難に陥るも、必死の努力で復興を成し遂げ、一代でレストラン、ホテルの「聚楽チェーン」を築き上げ、また観光事業などでも成功を収め「日本の食堂王」と称されました。その情熱の背景には「変わらない故郷への想い」があったといわれ、つねに郷里の発展を願い、事業を通して故郷に尽くしました。

旧横越町名誉町民

昭和28年6月24日認定

神田 又一(かんだ またいち)
明治19年6月13日生
昭和36年11月25日没

 第3、5、7、10代横越村長を務め、明治から昭和にかけて通算20年と2か月間、村政を担いました。村内各尋常小学校の増改築や教員住宅の建設など村内教育施設の整備を行ったほか、阿賀野川大改修事業、二本木の寿橋架け替えなどにも取り組み、村の発展に大きく貢献しました。

昭和28年6月24日認定

村手 範(むらて はん)
明治10年7月6日生
昭和34年7月5日没

 新潟師範附属小学校から明治39年に第9代横越小学校長に就任して以来、昭和6年の退職までの25年間、横越村の教育の発展、文化の形成に尽くしました。学校運営のみならず、子どもや教員、青年団、一般村民などを対象に数多くの講演を行い、横越村の精神的支柱として大きな影響を与えました。

昭和42年7月28日認定

伊藤 威夫(いとう たけお)
明治34年4月5日生
平成3年6月1日没

 昭和17年から昭和21年までの間、太平洋戦争で疲弊し混乱した時期に、第11代横越村長として村政を担いました。戦後、公職追放の通告を受けて村長を辞任しましたが、昭和30年に村長選挙で当選。昭和42年まで村長を務め、上水道整備や横雲橋架け替えなどを手がけ、村民の生活環境の向上に取り組み、第14代横越村長として村の発展に力を尽くしました。また、兄7代伊藤文吉氏の良き協力者でもあり、北方文化博物館の創設にも協力しました。

旧亀田町名誉町民

昭和44年6月23日認定

渡辺 幸太郎(わたなべ こうたろう)
明治21年10月23日生
昭和60年8月17日没

 亀田町議会議員、同町長、新潟県会議員、衆議院議員として戦前戦後を通じて38年余り地方自治の進展と国政に力を尽くしました。亀田町長として、隣村早通村との合併を成立させ、現在の広域行政の途を開きました。また、国の復興は食糧の増産と産業の振興にあるとの信念から、国営農業水利改良事業促進北陸協議会さらに同全国協議会を結成し会長を歴任、事業の拡大発展に努め土地改良事業に多大な功績を残しました。亀田郷においても全郷を一丸とする亀田郷耕地整理組合を設立、組合長として事業の基礎を確立し、当時総合的土地改良のモデル地区として全国の注目を集め、今日の亀田郷土地改良区に発展させました。

平成7年8月12日認定

古泉 栄治(こいずみ えいじ)
大正4年3月26日生
平成7年8月12日没

 昭和32年に亀田製菓株式会社を設立、昭和50年には売上高米菓日本一を達成しました。郷土愛から地域の名を冠した企業として、亀田を全国に知らしめ、社の発展を通し納税、雇用、投資、金融等で町に貢献しました。優れた見識と指導力により、行政機関の審議委員、各種団体の理事・役員等を務め、町の商工業振興、地域振興に功績を多く残しました。亀田商工会議所では、常議員、副会頭、会頭として、国の新施策や創設制度に対し、中小企業の金融、組織面で指導的役割を果たし、町の商工業者の経営安定発展に尽くしました。まちづくりに関しても強いリーダーシップの下に意見・要望・陳情を次々に取りまとめ商工会議所意見として、町に提言しました。また、亀田木遣り岩万燈の復元に際し、同保存会を結成、初代会長に就任。昭和51年から岩万燈祭りを再開し、伝統芸能の継承にも力を尽くしました。

旧味方村名誉村民

昭和43年8月19日認定

曽我 量深(そが りょうじん)
明治8年9月5日生
昭和46年6月20日没

 真宗大学、同研究院に学び、清澤満之師の学統を継ぐ。明治30年浄恩寺・曽我慧南師の養子となり、曽我と改姓。真宗大学、東洋大学、大谷大学の教授を歴任し、昭和16年真宗大谷派講師(東本願寺最高の学階)に任じられました。昭和36年大谷大学学長に就任し、昭和40年勲三等瑞宝章を受章しました。求道一筋に生き抜き、信仰と学問に生涯を捧げました。 → 曽我・平澤記念館のページへ

昭和43年8月19日認定

平澤 興(ひらさわ こう)
明治33年10月5日生
平成元年6月17日没

 京都帝国大学医学部を経て、同医学部助教授、新潟医科大学助教授を務める。スイス・ドイツへ留学、帰国後新潟医科大学教授となり、昭和21年京都帝国大学教授に。以後京都大学医学部教授、同大学総長2期などを歴任しました。脳神経解剖学の世界的権威者で、昭和26年「脳の錘体外路系に関する研究」により日本学士院賞を受賞し、昭和45年には勲一等瑞宝章を受章しました。 → 曽我・平澤記念館のページへ

旧潟東村名誉村民

昭和45年12月11日認定

樋口 顕嗣(ひぐち けんじ)
明治19年5月11日生
昭和54年2月3日没

 明治44年に上京、曳き売りの八百屋からスタートし、日夜を分かたぬ努力を重ね、大正13年に目黒青果株式会社を設立しました。その後、昭和10年には地域の26の市場を統合し東京荏原青果株式会社を創立し、青果業界に確固たる地歩を固めました。昭和25年には東京青果卸売人協会会長の要職につき、以来青果業界の要職を歴任し、業界の積極的な指導に努めました。また、読書を愛し美術品を収集する趣味人であり、若くして離れた故郷を愛する郷土人としての一面もありました。昭和45年には、収集された数多くの美術品を潟東村に寄贈しました。

旧月潟村名誉村民

平成16年12月5日認定

佐藤 幸治(さとう こうじ)
昭和12年6月9日生

 京都大学名誉教授、近畿大学法科大学院教授、学院長など、教育界で活躍し、司法制度改革審議会会長など数々の要職に就かれ国家社会の進展に大きく寄与、貢献されています。また、「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーにも選ばれています。

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