その他の先人

最終更新日:2012年6月1日

荒木寅平(あらき とらへい)

1866年(慶応2年)~1934(昭和9年)
出身:羽黒(当時松長村)
履歴:郡会議員、県会議員、県農会委員

西蒲原郡の馬耕の祖
 明治33年に開催された県大地主会は、県下112名の大地主を集め、苗代改良や害虫駆除、耕地整理といった農事改良について地主達の理解と協力を求めるために開かれた。この会に平松遮那一郎らとともに出席した寅平は、県馬耕講習会にも積極的に参加した。
 元来、年貢米1,500俵の入る地主でありながら、自ら馬耕教師となって各地に実地指導を行い、馬耕の祖(そ)といわれた。また、県農会委員として農業技術の指導にあたり、農業開発の大先達ともいわれている。

平松遮那一郎(ひらまつ しゃないちろう)

1867年(慶応3年)~1930(昭和5年)
出身:福島(当時福島村)
履歴:道上村長、県会議員、県会議長

水腐地(みずぐされち)を美田に変えた政治家
 幼い頃より英才のほまれ高く、弥彦明訓校(やひこめいくんこう)を終えて、河根川青剛斎(かわねがわせいこうさい)の塾で漢学を学び、長じて東京に出て増島六一郎(ますじまろくいちろう)博士に就いて修行した。
 明治30年県会議員となり、連続7回当選、県会議長を2期務めるなど県政の発展に貢献した。明治43年から21年間道上(どうじょう)村長として耕地と治水の改良のため奔走(ほんそう)し、区域内の木山川(きやまがわ)流域、大通川(おおどおりがわ)飛落川(とびおちがわ)関係の治水改良を実現、上郷水害予防組合の設立に関わり事業を発展させた。

保倉平太(ほくら へいた)

1881年(明治14年)~1944年(昭和19年)
出身:打越(当時打越村)
履歴:県会議員、道上村長、道上村農会長

農繁期(のうはんき)季節保育園の開設者
 東京英語学校から東京高等農学校に進んだ平太は、官途(かんと)にはつかず、郷土の発展に寄与(きよ)すべく故郷に戻り、県会議員、道上村長等を歴任して郷土のために力を尽した。
 学校統合や青少年育成に力を注いだが、特に農業発展に尽くした功績は大きく、また、幼児保育と農繁期における主婦の立場に理解を示し、農繁期季節保育園の設置などは、住民に大変喜ばれた。

田村虎太郎(たむら とらたろう)

1885年(明治18年)~1958年(昭和33年)
出身:姥島(当時姥島村)
履歴:全国浴場組合連合会会長、全国公衆浴場商工共同組合連合会会長、区会議員、府会議員、横綱羽黒山後援会会長

郷土の教育に寄与(きよ)した浴場界の大御所
 家業の農業を手伝っていた虎太郎は、27歳の時、浴場を経営している友人、赤塚五郎らの呼びかけもあって上京し、神田で風呂屋を始めた。戦時中は、郷里に疎開していたが、戦後すぐに上京し、やがて戦前にも劣(おと)らぬ発展を遂げた。この成功が、浴場業界における新潟県人の地位を確固(かっこ)たるものにした。
 また虎太郎は郷土の教育にも心を砕(くだ)き、教育施設の充実に寄与した。

小林金吾(こばやし きんご)

1853年(嘉永6年)~1932年(昭和7年)
出身:打越(当時打越村)
履歴:公衆浴場経営

銭湯の先達者
 昔から、越後(新潟)と能登(石川)は東京の風呂屋の出身地と言われ、そのなかでも、西蒲原郡は中之口村を中心に大勢の浴場経営者がいる。金吾は東京の風呂屋の草分けとも言われている。
 21歳の時に単身上京。「人の嫌がることを、真面目にすればよい」と重労働の風呂屋の奉公を選んだ。その後独立し、浴場経営者として成功を収め、故郷の二男・三男たちに東京で成功する道を開いた。

山田平太郎(やまだ へいたろう)

1861年(文久元年)~1910年(明治43年)
出身:六分(当時六分村)
履歴:衆議院議員、農工銀行頭取

両郡橋(りょうぐんばし)を架(か)けた地域発展の立役者(たてやくしゃ)
 幼くして出雲崎(いづもざき)の遠藤白水先生の西軽(にしかる)塾に入り、勉学に励んだ平太郎は、家業のかたわら水害の防止に努め、西蒲原郡と中蒲原郡をつなぐ両郡橋を架けるなど、地域の発展に尽くした。
 明治37年、衆議院議員となる。中国の視察員として当地の開発に力を注いだ。
 その後、農工銀行の創立に参画し、頭取に就任したが、明治43年中ノ口川の汽船事故で逝去(せいきょ)した。

山田雪嶺(やまだ せつれい)

1829年(文政12年)~1905年(明治38年)
出身:六分(当時六分村)
本名:山田甚作
 号:雪嶺、池星

書道の大家
 幼い頃から利発で読書を好み、特に書が巧みであった甚作は、越後の書聖、巻菱湖(まきりょうこ)に師事し、その没後は中沢雪城(なかざわせつじょう)について才能に磨きをかけ、書家となった。
 父と兄を相次いで亡くすと、帰郷して庄屋の職を継ぎ、また周囲に請(こ)われて家塾(かじゅく)を開き、多くの子弟を指導した。
 書は楷(かい)、行(ぎょう)、草(そう)、隷(れい)の四体に長じ、頼まれると快く応じたので、神社の幟(のぼり)や扁額、碑文など数多くの作品を残している。

小柳卯三郎(おやなぎ うさぶろう)

1843年(天保14年)~1915年(大正4年)
出身:東中(当時東中村)
履歴:庄屋、小吉村初代村長、県会議員、衆議院議員

自由民権運動と大河津分水(おおこうづぶんすい)工事に奔走(ほんそう)
 第1回県会議員。山際七司(やまぎわしちじ)らと並ぶ国会開設の先達者(せんだつしゃ)で、自由民権運動の指導者のひとりである卯三郎(うさぶろう)は、最初の国会議員となる。
 13歳の時長善館(ちょうぜんかん)で漢籍(かんせき)を学び、長岡藩士の家で修行した後、帰郷して庄屋職を継いだ卯三郎は、明治22年、小吉村初代村長となり、村民福祉の増進と教育の向上をはかる。また、大河津分水工事など冶山・冶水活動に全力を傾けた。

栃倉晴二(とちくら せいじ)

1906年(明治39年)~1998年(平成10年)
出身:打越(当時道上村)
履歴:区会議員、都会議員、東京都公衆浴場商業共同組合理事長
 東京都並びに全国公衆浴場環境衛生同業組合理事長
 内閣物価審議委員会臨時委員

大臣表彰を受けた全浴連初代理事長
 浴場王といわれた叔父栃倉奥太郎の影響を受けた晴二は、風呂屋の経営を夢見て上京。努力のすえ独立開業に至ったが、応召(おうしょう)され、従軍(じゅうぐん)3年で帰郷、風呂屋の経営に精魂(せいこん)を傾け、業績をあげていった。
 戦後、区会議員に選ばれたのを契機に様々な公職、業界の理事長などを歴任。その功績により、環境衛生功労者として昭和30年厚生大臣より表彰された。

佐藤 斎(さとう いつき)

1909年(明治42年)~1989年(平成元年)
出身:三ッ門(当時道上村)
履歴:新潟運輸株式会社社長、県交通安全協会会長、県トラック協会会長

全国屈指(くっし)の輸送王
 小学校高等科を卒業後、将来性に希望を託し、20歳にしてトラック1台で運送業をはじめた。不断の努力によって業績も次第に向上していった。
 戦時下、各種の統制により、同業者で株式会社を設立。戦後、新潟運輸株式会社と改名し、社長となる。また、タクシー業、建設業にも参入する一方、長距離輸送に着目して各大都市に拠点を築き、輸送路の開拓とその機動力を以(も)って実績を上げ、業界に名を馳(は)せた。

笹川福太郎(ささがわ ふくたろう)

1904年(明治37年)~1972年(昭和47年)
出身:三ッ門(当時道上村)
履歴:鮮魚商、食堂経営、不動産業

故郷に集会施設を寄贈した苦労人
 9歳で一人東京へ奉公に出された福太郎は、鮮魚商で生計を立てていたが、37歳で脳卒中に倒れ、療養生活を余儀なくされた。戦時中は巻町へ疎開。昭和20年に再度上京。新宿駅前で食堂を始め、食糧難の時代にあって大繁盛した。
 その蓄(たくわ)えを元に不動産業を営み、三ッ門(みつかど)神社の本殿の改修奉納や地元の集会所建設などに貢献した。

山崎直栄(やまざき なおえい)

1905年(明治38年)~1973年(昭和48年)
出身:道上(当時道上村)
履歴:村会議員、村農業会長、道上村長、県農地委員、県会議員

農村民主化の指導者
 大正末期から昭和初期にかけての経済不況は農村にも影響を与えた。特に打撃を受けた小作農家は、小作料の減免と耕作権の確立を求め、地主との間に諸々の問題が生じた。
 小作側の先頭に立ち、地主側との折衝(せっしょう)を辛抱(しんぼう)強く進めた直栄は、次第に双方に理解され、農村の民主化に貢献した。
 その後、道上村長となり、県農地委員に就任、昭和37年県会議員に当選し、戦後の困難な農地改革の遂行(すいこう)に尽力した。

西村多計司(にしむら たけし)

1914年(大正3年)~1988年(昭和63年)
出身:打越(当時道上村)
履歴:電信電話公社総裁秘書役、東京中央電報局長、四国電通局長ほか

通信界の功労者
 幼少の頃、昼間は家の手伝い、夜は勉学にいそしみ、そのかいあって、仙台逓信(ていしん)講習所普通科へ進み、新潟郵便局へ採用された。
 その後も人一倍勉学に励み、難関である高等文官試験に合格。電信電話公社総裁の秘書役に就任後は総裁に同行渡米し、政府・財界と折衝(せっしょう)を重ねて、初めて外債発行の途を開いた。退職してからは、新しい通信サービスとして登場したポケットベルを県内に普及させるため通信会社を創立し、その普及に大きく貢献した。

澤 政一(さわ せいいち)

1918年(大正7年)~1981年(昭和56年)
出身:打越(当時道上村)
履歴:新潟医科大学精神医学教室教授、新潟大学医学部付属病院長

「てんかん発作」の研究に捧げた36年
 代々庄屋を務めた澤家で幼少期を過ごした政一は、旧制中学を卒業すると、医学を志して北海道帝国大学予科に進んだ。
 医学部卒業後は、陸軍軍医候補生として入隊。復員後、北大を経て新潟医科大学精神神経科学教室に入局。特に「てんかん発作」の神経関係、大脳生理に関する研究に打ち込んだ。中でも「てんかん発作時の細胞内電位」に関する一連の研究は世界の水準を越えるものとして高い評価を受けた。

赤塚五郎(あかつか ごろう)

1886年(明治19年)~1935年(昭和10年)
出身:羽黒(当時羽黒村)
履歴:東京浴場組合長、全国都市浴場組合連合会会長
 区会議長、府会議長、衆議院議員

浴場業界の発展に寄与
 小学校を卒業した五郎は、明治34年現役兵を志願。軍曹(ぐんそう)に昇進し、退役。その後、東京で風呂屋を経営し、大正10年に東京浴場組合長となり、業界の発展のため全国都市浴場組合連合会を創立。遂(つい)には全国都市浴場組合連合会を発起(ほっき)し、その会長に就任した。
 こうした活躍により、新潟県人の浴場業界での地位を固め、府会議員、そして衆議院議員として業界の発展に努めた。

山田助作(やまだ すけさく)

1886年(明治19年)~1947年(昭和22年)
出身:六分(当時六分村)
履歴:衆議院議員、西蒲原郡農会長、西川米改良協会長

産業振興に尽くした政治家
 6歳の頃より県下でも屈指の大地主、本家山田平太郎に養育され、官立盛岡高等農林学校を卒業。平太郎の養子となり、山田家を継いだ。
 助作は学んだ知識を活かし、耕地改良、米質の向上、農業経営の改善、大農調整機の導入、米麦(べいばく)倉庫の創設など郷土の発展に全力を傾けた。
 また、衆議院議員を2期務める間、新潟新聞社長として報道文化にも力を尽くし、両郡橋の架設、新潟電鉄の敷設に寄与した。

赤沢ナカ(あかざわ なか)

1871年(明治4年)~1941年(昭和16年)
出身:東中(当時小吉村)
履歴:「守弧扶独幼稚児保護会」二代目会長

赤沢保育園のおばあちゃん先生
 通称「赤沢保育園」は、我が国最初(明治22年)の保育園である。正式名「守弧扶独幼稚児保護会(しゅこふどくようちじほごかい)」は、ナカの夫、赤沢鍾美(あつとみ)の「清修(せいしゅう)学校」託児(たくじ)所として始まった。当時、幼児を連れて登校しなければならない子ども達が多く、その状況を苦慮(くりょ)した夫妻は託児部をつくり、ナカは授業が終わるまで幼児を無償で預かり、親身に世話をするようになった。その後独立した保育園は、特に貧困者の幼児保育に大きく貢献した。

大澤仁助(おおさわ にすけ)

1874年(明治7年)~1921年(大正10年)
出身:羽黒(当時羽黒村)
履歴:鍛冶屋

宮内省(くないしょう)も購入した越後鎌(えちごがま)
 大澤重吉の次男として生まれた仁助は、小学校を卒業すると、富永(現吉田町)の鎌かじ亀倉伝三(かめくらでんぞう)の弟子として住み込み、23歳で独立して鍛冶屋を始めた。
 日頃、温厚な仁助は仕事場では別人のように厳しく、精魂(せいこん)こめて製作した鎌は数々の賞を受賞し、越後鎌の名声を全国にとどろかせた。
 明治40年には天皇陛下御用品として、宮内省が購入した。また優秀な弟子を8人も育てた。
 その間にも、羽黒で農事共励会を創立し、農業技術の改良発展に努めた。

長沼権一(ながぬま ごんいち)

1887年(明治20年)~1952年(昭和27年)
出身:河間(当時河間村)
履歴:道上村長、帝国在郷軍人会西蒲原郡連合会長、衆議院議員

海軍へ飛行機を献納した政治家
 旧制中学校を卒業後、土とともに生きる信念を持って、郷土に残った。陸軍少尉に任官(しょういにんかん)した後、在郷(ざいごう)軍人会西蒲原郡連合会長に就任し、飛行機の献納(けんのう)運動を展開、「報国号(ほうこくごう)」という海軍機を献納した。当時、海軍航空本部長であった山本五十六(いそろく)(後の海軍元帥(げんすい))の来臨(らいりん)を得て、鎧潟で盛大な献納式(けんのうしき)を行った。
 その後、衆議院議員を務め、郷土の発展のため尽力した。

米山久馬(よねやま きゅうま)

1889年(明治22年)~1945(昭和20年)
出身:道上(当時道上村)
履歴:北支派遣軍輸送司令官、陸軍自動車学校長

シベリアで没(ぼっ)した陸軍中将
 幼少の頃より秀才のほまれ高く、難関といわれた陸軍士官学校を経て、陸軍大学校に進み、中尉(ちゅうい)に任官(にんかん)した。その後は各地に転戦し、第二師団付少将を最後に現役をしりぞいた。
 太平洋戦争開戦と同時に、請(こ)われて中国の陸軍自動車学校長となり、技術者養成に尽力した。久馬は人一倍責任感が強く、しかも部下思いで有名な武将であった。
 終戦とともにソ連に抑留(よくりゅう)され、ハバロフスクの病院でその生涯を閉じた。

長沼重隆(ながぬま しげたか)

1890年(明治23年)~1982年(昭和57年)
出身:河間(当時道上村)
履歴:日本郵船株式会社副参事、総司令部民間情報教育図書館顧問
 新潟県立女子短期大学英文科教授、新潟日米協会幹事

詩人ホイットマンの研究者
 旧制中学を卒業後、単身渡米。カリフォルニア州立大学の聴講生となり英文学を専攻。 サンフランシスコの邦字(ほうじ)新聞の客員記者として、文芸欄、演劇欄を担当。その後日本郵船に招かれ、ニューヨーク支店に入社。
 退職後の昭和22年、語学力をかわれ駐留軍の新潟軍政部翻訳(ほんやく)係になる。新潟県立女子短期大学の創立に際し、英文科教授として迎えられた。その傍(かたわ)ら詩人ホイットマンの全訳に情熱を傾け、論文集などを多数刊行した。

宮川富士太郎(みやがわ ふじたろう)

1893年(明治26年)~1953年(昭和28年)
出身:門田(当時小吉村)
履歴:小吉村農業協同組合初代組合長、小吉村議会議員、小吉村長

時流を見据(みす)えた実業家
 家の借財返済のため、大地主の山田家へ奉公に出された。20歳で独立し、荷車での運搬業を始め、またたく間に返済。土木業を主体とする宮川組を創設した。
 昭和7年に両郡橋、昭和10年には新飯田橋の架設を完工。また人々のために、いち早く路線バスを開業して、先駆者として賞賛された。
 戦後、農業会長・小吉村長に就任し、村民の生活物資確保に力を尽くした。

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