史跡

最終更新日:2012年6月1日

秋葉区の宝物

古津八幡山(ふるつはちまんやま)遺跡(国指定文化財)

八幡山遺跡群(下記記載)の中の1つで、平成17年7月14日に国の指定文化財として指定されました。

八幡山(はちまんやま)遺跡群史跡(市指定文化財)

古津地内の八幡山遺跡群は、埋葬地遺跡(縄文時代)、八幡山遺跡(弥生時代)、八幡山古墳(古墳時代)、大入・古津初越A・B遺跡(奈良・平安時代)などの遺跡からなります。中核となる八幡山遺跡は、全体が環濠を伴う城砦的集落で、遺跡の主要部は何重かの環濠と棚により防備され、住居址は数十基を越えるものと推定されます。

また、県内最大の八幡山古墳は、山稜北端の平野を見下ろすところに造営された古墳時代前期の古墳です。直径56メ-トルと広い墳頂平坦面を持つ円錐形の大円墳(最近の研究では「帆立貝式古墳」説が有力)で、南面はその原形をよく止めています。一方、山麓には多数の製鉄跡が分布し、蒲原地方に鉄を供給していた一大生産基地と推定される多くの古代製鉄跡がみられます。

所在地:秋葉区古津

煮坪(にえつぼ)(市指定文化財)

真柄家(柄目木)の祖、仁兵衛が新発田藩の命を受け、荒地の開墾にあたっていた慶長13(1608)年頃、田家の山中で草水(くそうず)油(石油)を浮かべていた池を発見し、これが新津油田の始まりとなりました。

油井戸の全盛時代には、油と水と天然ガスとが黒い液体となって湧き上がり、その勢いは1メ-トル余りにも激しく噴き上がったそうです。発する音は周辺の約800メ-トル四方まで聞こえ、沸々と物を煮ているかのようであったことから、油井戸は煮坪と呼ばれるようになりました。この煮坪は「越後の七不思議」の一つとして聞こえ、橘崑崙(こんろん)の「北越奇談」にも紹介されています。明治以降石油の乱掘のため煮坪は自噴する力が弱まり、現在は当時の面影をとどめていませんが、新津の石油の原点に変わりありません。

所在地:秋葉区草水町3丁目

幸清水(さきしみず)(市指定文化財)

新津は石油地帯のため、昔から飲み水に恵まれませんでした。文化4(1807)年、新津町の庄屋長井久左衛門は水脈を探しているうち、秋葉山のふもとで清泉を発見し、自費で設備を整えて町民に自由に利用させました。さらに、久左衛門は京都の公卿花山院愛徳(よしのり)に清水の名と由来文を請い、清水は「幸清水(さきしみず)」と命名されました。清水はその後も尽きることなくわき続け、昭和7(1932)年上水道が完成するまでおよそ130年間、町民の命の泉となりました。当時、この清水前には朝夕水汲みの人びとの長い列ができ、なかには運搬を請け負う人もいて水桶を天びん棒でかついで行き交う水汲み女衆の姿は新津独特の風物になっていました。水道が敷かれた当初、しばらくは汲まれていましたが、次第に少なくなり、今はわずかにわき出る水に往時をしのぶことができます。

所在地:秋葉区秋葉1丁目

東島城跡(市指定文化財)

東島集落の南東に「城ヶ平」または「要害山」と呼ばれている標高107メートルの独立峰が東島城跡です。東西約1,000メートル、南北約300メートルと細長く、東側は険しい崖で、西側は緩やかに傾斜してます。頂上から北西へのびる尾根には主郭が構築され、その先端は二の丸跡と思われます。さらに西側の山腹から下方には、防御用の曲輪(くるわ)と見られる根子屋がいくつも階段状に連なっています。山頂はおよそ10アールほどの本丸跡で、北西方向が大きく開けて平野部がみわたせ、南西側には土塁が認められます。南東の尾根続きに深い空濠が二重に連続しており、さらにその先にもう一条の空濠が掘られていて、以前はこれに続いてなお二条の空濠が残っていました。この城跡については史料がないため不明ですが、新津氏が有事の際に備えた中世の要害と思われます。

所在地:秋葉区東島

桜清水(市指定文化財)

弘安元(1278)年、鎮守様の再建のとき土取場から清水がわきました。飲み水が不足していた村人は大変喜び、神のお授けの水として「禊(みそぎ)清水」と名づけ後世まで大事に守り続けました。たまたま清水の近くに桜の大木があって毎年春になると花が咲き乱れて風情を添えたので、いつとはなく「桜清水」とよばれるようになりました。また、一説には、妙蓮寺の開祖日印上人がこの清水を発見して茶の湯に用いたともいわれています。この清水は長い年月にわたって住民の生活をささえ、道ゆく人びとに潤いと憩いを与えました。

所在地:秋葉区中村

ひさかき清水(市指定文化財)

妙本寺境内南端の田家集落と丘陵が接する崖下にあるこの清水は、妙本寺の開山(1720年頃)以来、寺用として使用されていましたが、田家地区の発展とともに人口が増加してきたために近隣住民の用水として使用され、以来生活用水として上水道が完備するまで使用されました。妙本寺の境内には今でも多くのひさかきがおい繁っていますが、かつてこの清水の脇にもひさかきの老樹があり清水をおおっていたので、昔から「ひさかき清水」と呼ばれていました。

所在地:秋葉区田家1丁目

手掘石油井戸(市指定文化財)

新津では石油の採掘が380年程前から行われ、その採掘技術は時代により手掘りから上総(かずさ)掘り、機械堀りへと進歩していきました。手掘りによる石油の採掘が盛んになったのは、明治時代に入ってからで、近年まで167本の手掘り石油井戸が新津丘陵にありました。しかし、山地に入るときには、大変危険であることから、国の指導に基づき井戸は埋め戻されていきました。現在保存されている石油井戸(深さ約27メ-トル)は、帝国石油株式会社から寄贈されたものです。この井戸は、上総掘りや機械掘りが行われる以前の石油産業史の資料としてはもとより、新津油田の歴史を知るうえでも大変貴重なものです。

所在地:秋葉区田家

伴百悦(ばんひゃくえつ)墓碑

会津藩士伴百悦は、明治戊辰の役(1868)において越後口の戦いに参戦出陣しました。戦後、新政府軍の命令で戦死者の埋葬もできず野ざらしにされた状況下で、士族の身分を捨てて遺体埋葬処理に奔走しました。その後、民生部門の監察方を勤めた新政府軍の越前藩士の勝手気ままな取り締まりや町民に対する残酷な仕打ちに怒った百悦らは、越後街道の束松峠(たばねまつとうげ)でこの藩士を斬り、百悦は坂口津右衛門を頼りこの地にあった慶雲庵(けいうんあん)に身を寄せましたが、明治3年(1870)追手に取り囲まれ自刃しました。平成13年(2001)には、没後130年を記念して百悦の墓碑が郷里である会津若松市の菩提所墓地にも完成し、縁者によって鎮魂法要会が行われました。

所在地:秋葉区大安寺

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