考古・歴史資料

最終更新日:2012年6月1日

秋葉区の宝物

本町中世石仏(市指定文化財)

新津本町2丁目の通称「小揚(こあげ)小路」の奥、新津川西堤防道路脇のお堂の中に、この石仏が安置されています。地元では、耳の不自由な人にご利益がある地蔵尊として、昔から厚い信仰を集めていますが、本来は阿弥陀如来を刻んだものです。現在は福王寺の所有となっていて、地元の地蔵講の人たちによって大切に管理されています。石仏がいつ頃からこの場所に安置されているのかは、はっきり分かっていませんが、昔この付近の川岸は船着き場になっていて、古くは福王寺の大門にあたっていたといわれています。

所在地:秋葉区新津本町2丁目

大鹿諏訪神社中世石仏(市指定文化財)

大鹿諏訪神社の中世石仏は地蔵様石と呼ばれていますが、阿弥陀如来を刻んだもので、現在は地元の人達によって建立された新御堂に安置されています。高さは地上33センチメ-トル、幅26センチメ-トルの御影石でできています。

この石仏が安置された由来は分かっていませんが、年配者の話では若い頃よく力比べの盤持石として遊んだ記憶があるということです。この石仏は本町の中世石仏、盛岩寺中世石仏とともに、当時の人々の精神(信仰)生活を知る上で貴重な資料です。

所在地:秋葉区大鹿諏訪神社前

盛岩寺(せいがんじ)中世石仏(市指定文化財)

大安寺にあります盛岩寺境内の庚申搭前に、御影石に刻まれた3体の中世石仏が並んでいます。

この石仏の由来は、はっきりしていませんが、言い伝えによると、新郷屋の人が川から拾って来て、この寺に安置したものだそうです。

所在地:秋葉区大安寺815

朝日本多家の双芳碑(そうほうひ)(市指定文化財)

朝日本多家の前庭にある双芳碑は、本多文明・敬斎父子の功績をたたえる碑で、高さ2メ-トル85センチ、幅1メ-トル34センチのどっしりとした仙台石でできています。

この碑は、明治40(1907)年に中野貫一をはじめとする47名の人たちによって建立されました。碑文によると文明父子は医業のかたわら実学館という私塾を開き、子弟に学問を教えていたそうです。また、明治の初めには医学の普及を図るため医学館を建設したい旨を水原の越後府へ願い出ました。時の壬生(みぶ)知事も賛成し、自ら仁寿館と命名しましたが、不幸にも志半ばにして子の敬斎が明治2(1869)年に、父の文明もその翌年に相次いで亡くなり、実現には至りませんでした。

所在地:秋葉区朝日

秋葉神社の祈祥碑(きしょうひ)(市指定文化財)

秋葉神社の祈祥碑は、高さ2メ-トル60センチ、幅1メ-トル10センチの大きさで、寛政11(1799)年桂家5代目の成章(なりあき)が建てたものです。文章は武蔵国吉見郷(埼玉県)出身の名僧愚禅禅師が、書は新発田藩の右筆大江(尾本)元遜が書いたものです。碑文によれば、桂家3代目の誉春(たかはる)はここに観音堂を建て、朝夕参詣して子孫の幸福を祈ったが、孫の成章がその意思を継いでこの碑を建立したと記されています。その後、観音堂は田家の大善庵に移されたため、祈祥碑だけが山中に残される結果となりました。この碑は、神社の境内に仏堂が混在した神仏習合の歴史を示す好資料です。

所在地:秋葉区秋葉3丁目

俳諧三祖塔(市指定文化財)

桂家四代誉章(たかあき)(1734~1796年)は、文学に大変造詣が深かった人です。文壇とも盛んに交流し、新津近辺にとどまらず、都を含め全国から多くの客人が桂家を訪れました。また、新発田の俳人画一庵こ虹(ここう)(1698~1774年)から俳諧を学び、遊字庵些兮(さけい)と号し、安永2(1773)年には、京都の橘屋から「俳諧十論衆儀拾遺(はいかいじゅうろんしゅうぎしゅうい)」を刊行しました。誉章は晩年の寛政6(1794)年には、秋葉山円通閣の隣に「俳諧三祖塔」を建立しました。この三祖塔は「芭蕉翁」「梅花仏」「盧元法師」と彫った三基の石碑からなっていて、誉章の俳諧への思いが込められています。

萬巻楼(まんがんろう)の額、聯(れん)、萬巻楼記(市指定文化財)

桂家四代誉章(たかあき)は学芸を好み、邸内に万巻の書を集めた書庫を建てました。書庫の入り口には中国人顧子英(こしえい)が揮亳した木額を掲げ、両側に聯(れん:柱や壁などの左右に掛けて飾りとする細長い板)をさげました。聯は朱熹(しゅき)の作で、右は「日月両輪天地眼」、左は「詩書萬巻聖賢心」と書かれています。萬巻楼記は文化7(1810)年、桂家を訪れた江戸の儒学者亀田鵬斎(かめだ ほうさい)が書いた巻物で、萬巻楼が当時の風俗教化に大きく貢献したことをたたえています。この亀田鵬斎が名づけた桂家の萬巻楼は、万巻の書を集めた書庫であるとともに、文化交流などを通じて新津の文化に大きな影響を与えた桂家の文化を象徴するものです。

仏路越えの馬頭観音(ほとけじごえのばとうかんのん)

矢代田の西善寺わきの道から山に入り、菩提寺山を越えて五泉市の橋田に至るおよそ4kmの山道の行き来のことを、かつて「仏路越え」と呼んでいました。

菩提寺山は、弘法大師空海が菩提寺を開いたとの伝承があり、名もその故事にちなんでいますが、一方で仏路山という別名も持っています。仏路越えとは、そこからとられたものといえそうです。この仏路越えは昭和40年までは道として多くの人から活用されていました。多くの行商人や職人たちが山を越していったほか、矢代田と橋田の婚姻関係から花嫁たちもこの仏路越えを通って嫁いでいったとの話です。

仏路越えの途中には馬頭観音がひっそりとたっています。往時の人々は馬とともに山越えもしたのでしょう、その道中の安全祈願のために誰かが建立したと考えられます。素朴な石仏の前に立ち、人々がここで静かに手を合わせていた様子が目に浮かんでくるようです。

渡場町の馬頭観音(わたりばちょうのばとうかんのん)

小須戸橋のたもとにたたずむ馬頭観音。その建立の背景には哀しい物語が横たわっています。

この馬頭観音の立つ場所は、かつて渡場町と呼ばれていました。信濃川の渡し舟の渡し場として大変ににぎわった町で、商家や宿屋、料理屋などが軒を並べていました。ここには人間ばかりではなく、馬たちも集められていました。

悲劇が起きたのは天保の頃。信濃川が氾濫しているにもかかわらず、無理やりに渡し舟が行われ、それに乗せられた馬たちはすべて溺れ死んでしまいました。馬頭観音はその馬たちの供養のために建立されたという話です。

昔は馬も家族の一員として扱われてきました。農民たちにとっては重要な労働力だったからです。馬頭観音が建立されたのは、それだけ馬たちが大切に思われていたことの証でしょう。

所在地:秋葉区小須戸

奈良三彩(さんさい)

平成4(1992)年に発見された奈良三彩は高さ4.9センチ、口径4.5センチ、胴径8センチ、底径5.2センチの小壺で、主に祭祀や仏事に用いるために、平城京で作られたものといわれています。この壺は、上浦遺跡(新津工業団地内)の発掘を行ったとき、100メートルほど離れた2か所から出土し、全体の2分の1から3分の1ほど遺存していたものを修復しました。壺の素地は水簸(すいひ)された白色緻密(ちみつ)な胎土で、表面は淡い橙色を帯び、焼き上がりが良く、緑・黄褐・白の釉薬(ゆうやく)が光沢のある発色を見せています。なお、上浦遺跡からは奈良三彩のほかに、9世紀中頃の大型堀立柱建物や総柱倉庫、井戸、畠などが検出され、当時の有力な豪族の屋敷があったものと考えられます。

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