桂家の歴史と文化

最終更新日:2012年6月1日

 越後屈指の名家である桂家は、江戸時代初期に能登国飯田(石川県珠洲市飯田)から移住してきました。新津に居を定め、しだいに家産をなし、新発田藩大庄屋に任命されました。

 その後新発田藩への貢献が認められて田家山を賜り、そこに秋葉神社を建立したため、田家山は「秋葉山」と呼ばれるようになりました。

 また江戸の儒学者亀田鵬斎(ほうさい)をはじめとする多くの文化人たちを招き、新津周辺の文化人たちと交流をもちました。

 桂家は天皇家につながる桓武平氏の血をひくため、尊王の志篤く、国学を修め、明治維新に際しては勤皇家として新時代をリードしたといわれています。

能登から越後へ

 桂家は、桓武天皇の皇子である葛原(かずらはら)親王に始まる家柄です。葛原親王の子である高棟王(たかむねおう)は平朝臣の姓を賜り、公家平氏の祖となりこの系統が桂家とつながります。ちなみに高棟王の弟である高見王の子、高望王(たかもちおう)は武家平氏の祖となりました。

 葛原親王から数えて13代目に当たる治部卿親輔の子秀行は、九条家領若山庄の鎮守として能登国飯田に春日神社を興すため、春日大社より分霊し、社家として能登へ下り、葛原(かずらはら)家の祖となりました。葛原家16代誉秀(たかひで)は神職を弟の忠秀に譲り、寛文2(1662)年に越後へ来ました。寛文11(1671)年に善道興野に居を定め、新津町の横山門左衛門の娘を妻に迎えます。そして、葛原の姓は皇室に対し不敬であるとして桂原と改姓し、新津桂家の祖となり、2代誉智(たかとも)のときに「桂原」の原の字を省き、桂と称するようになりました。

新発田藩新津組大庄屋就任

 3代六郎左衛門誉春(たかはる)は享保6(1721)年に家督を相続し、質屋と酒屋を営みました。しだいに家産を増やし、元文元(1736)年11月には新発田藩勝手方御用役を命じられました。寛保元(1741)年9月、新発田城西門の普請を勤めた功により庄屋格に取り立てられました。宝暦11(1761)年には新発田藩から神社建立のため田家山を与えられたので、宝暦13(1763)年9月、京都よりご神体を勧請して秋葉神社を建立しました。殖産事業にも尽くし、京都の宇治から茶種を取り寄せて秋葉山で栽培したり、新津町に市場を開設したとも伝えられています。晩年には仏教に心を寄せ、秋葉山に円通閣、葛塚(旧豊栄市)に龍雲寺を建立しました。

 4代六郎左衛門誉章(たかあき)は3代誉春の弟で、明和元(1764)年に新津組大庄屋に任命され、明和5(1768)年の新津騒動のときに功績をあげたといいます。京都より大量に書籍を購入し、邸内に「萬巻楼(まんがんろう)」という文庫を建てました。また新発田の俳人

しんじょうぼうここう

に俳諧を習い、自ら「遊字庵些兮(さけい)と号し、芭蕉の百回忌の翌年寛政6(1794)年、秋葉山円通閣に三祖塔(芭蕉翁・梅花佛・廬元法師)を建立しました。

文化人との交流

 文化7(1810)年10月、江戸の亀田鵬斎(ほうさい)が桂家を訪れ、萬巻楼記(まんがんろうき)を書き、聯(れん)を贈った。鵬斎はほかにも「幸清水(さきしみず)碑文」や「堀出神社(ほりでじんじゃ)碑文」「後赤壁賦」を新津で書き残しています。

 文政9(1826)年秋、良寛の弟である橘由之(ゆうし)は新津に草庵を結び、6代東吾誉正(たかまさ)とその妻とき子に和歌を教えた。文政13(1830)年3月、由之は五泉の小山田の桜を見るために桂家に立ち寄り、十数日間滞在した。同年9月9日の重陽の節句には、誉正夫妻から由之に「ひな鶴の絵入り杯2個」、良寛へは好物の「柘榴(ざくろ)7個」が贈られています。

 天保12(1841)年、誉正は伊勢・京都へ旅行した。伊勢松坂で本居内遠(もとおりうちとお)に入門し、「庭園三十景歌」を詠んでもらっています。京都では、野之口隆正の斡旋で隆正の門人である岩倉具集(ともあい)(具視の祖父)にも三十景歌を依頼しています。

国学への傾倒

 天保11(1840)年、上州出身の国学者である飯塚久利は桂家を訪れ、「新津駅桂樹苑三十景和歌」を詠みました。翌年の天保12(1841)年に「旦飯野(あさいの)神社考」を著し、天保14(1843)年には誉正の話や資料をもとにして良寛のことをまとめた「橘物語」を書きました。嘉永元(1848)年に再び新津を訪れたときは、桂家のほか金沢の石津信保、飯柳の横山光徳、菓城寺の曜月などを訪ねています。

 天保14(1843)年、国学者である鈴木重胤が秋田にいる平田篤胤に会いに行く途中、野之口隆正の紹介状をもって桂家を訪れました。そして誉正は重胤に仲介を頼み、篤胤に入門しました。また篤胤の著書「古今妖魅考(ここんようびこう)」の出版を援助し、その序文を書いています。

 弘化元(1844)年、重胤は秋田からの帰途、再び桂家を訪れ、「桂能志豆久(かつらのしずく)」を著しました。このとき、7代慎吾誉重は重胤に入門した。誉重は重胤からその才能を高く評価され、嘉永元(1848)年に重胤の「祝詞講義(のりとこうぎ)」を出羽大山(鶴岡市)の大滝光憲とともに校訂しています。翌年の嘉永2(1849)年には、重胤の著書「世継草(よつぎぐさ)」の注解書である「世継草摘分(よつぎぐさつみわけ)」の執筆を始めました。嘉永4(1851)年に桂家を訪れた重胤は、前年に没した誉正の墓碑銘を書いている。この年、誉重は「神習考(かんならいこう)」の初稿を執筆し、安政3(1856)年に完成した。また、嘉永年間から安政の初めにかけて「済世要略(さいせいようりゃく)」を執筆しました。

 誉重は、人間も物事もすべて神が創造したもので、すべては天皇に奉仕するためのものであり、人間は生まれたときからそれぞれの家職が決められていると考えました。大庄屋の職にある誉重は民を教え導く役割を強く意識し、地主豪農の土地の集積を強く非難しています。この考え方は桂家の中で受け継がれ、8代誉恕(たかひろ)は戊辰戦争・明治維新に、9代誉輝(たかてる)・10代恕佑(ひろすけ)は日清・日露戦争に積極的に参加していく背景となりました。

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