正法寺(秋葉1丁目)

最終更新日:2023年3月14日

正法寺

正法寺は曹洞宗の寺院で、慈光寺(五泉市)の末寺です。山号は「応明山」といいます。明応2(1493)年、慈光寺の僧・月照が田上に草庵を結んだのが、この寺の始まりです。新津城主・新津氏の菩提寺となった正法寺は、永正元(1504)年には大鹿へ移り、慶長2(1597)年に新津へと移転しました。
「新津松坂」を広めたと伝わる新津勝資(丹波守)は、上杉氏の会津移封に従い、慶長5(1600)年に会津若松で亡くなります。しかし、その遺骸は新津の正法寺に葬られました。後に遺骸は米沢へ改葬されましたが、勝資の位牌は今も正法寺に安置されています。また、正法寺の歴代住職は、西善寺(矢代田)・千昌寺(水田)・高岩寺(金津)・広大寺(古津)・観音寺(新町)・久昌寺(田家)・林照寺(中村)・正福寺(新保)と秋葉区内の曹洞宗寺院の多くを創立しました。
新津の中心部にあった正法寺は、明治13(1880)年と41年に相次いで火災で焼失したため、44年に現在地へ移転することとなり、大正3(1914)年には本殿が完成しました。なお、正法寺が移転した跡には、昭和3(1928)年に新津町役場(のちの新津市役所)が建てられ、現在は新津本町中央公園となっています。

太子堂

太子堂とは、聖徳太子をまつるお堂です。聖徳太子は、法隆寺や四天王寺の建立を通じて、大陸から寺院建築やそのための技術を伝えたことから、大工や左官など建築に携わる職人たちの守護神として信仰を集めてきました。
大正13(1924)年、新津の大工や材木商などが組織した聖徳太子信仰会は、法隆寺から聖徳太子像を下付されました。その像は正法寺に仮安置され、像をまつる新津頌徳会が作られました。昭和36(1961)年、新津頌徳会は秋葉神社境内にあった天満宮の社殿を譲り受け、正法寺の境内に移築しました。そして、聖徳太子像を安置しました。それが、現在の太子堂です。

「不許葷酒入山門」の碑

「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」とは、「臭いの強い野菜や酒を口にした者が清浄な寺の中に入るのを許さない」という意味です。このような碑は、結界石(戒壇石)と呼ばれるもので、禅宗寺院の門前に多く建てられています。正法寺の結界石は嘉永5(1852)年に建立されたものです。

正法寺墓地

吉田家墓所

歴史地理学者として知られる吉田東伍(1864~1918)とその家族が葬られています。吉田東伍は、保田(阿賀野市)の旗野家に生まれました。小学校の教員となって大鹿に赴任し、その土地の名家であった吉田家の養子となります。後に上京した東伍は独学の末、13年かけて日本全国の地誌をまとめあげた『大日本地名辞書』を著し、早稲田大学教授・文学博士となりました。また、能楽の研究にも精力を注ぎ、世阿弥の『風姿花伝』が世に知られるきっかけを作りました。
吉田東伍は大正7(1918)年1月、旅先の銚子(千葉県)で亡くなりました。翌年2月には東伍の次男で「琵琶湖周航の歌」の原曲「ひつじぐさ」を作曲した吉田千秋も亡くなります。東伍・千秋親子は、初め小戸上組の高陰寺に葬られましたが、東伍の長男・春太郎が大正11年に正法寺へ墓所を移しました。
吉田家墓所の中央には、高さが3.6メートルもある吉田東伍の墓碑があります。東伍の生い立ちや業績をまとめた碑文は、早稲田大学で東伍の同僚であった歴史学者の久米邦武(1839~1931)が撰文し、東伍の弟で海老ヶ瀬(東区)の高橋家へ入り、『越佐史料』を編さんした高橋義彦(1870~1931)が書いたものです。
なお、阿賀野市の東伍生誕の地には、吉田東伍記念博物館があります。

鈴木寅五郎頌徳碑

鈴木寅五郎(1867~1945)は善道興野(善道)で代々、名主を務めた家に生まれました。弥彦村の明訓校で学び、後に塾を開いて地域の子弟たちを教えました。明治28(1895)年には三興野村の村長となり、34年に三興野村と新津町が合併すると新津町の町長となります。それから、昭和7年(1932)に退任するまで30年余りの間、石油産業の興隆と鉄道網の発達によって大きく変わる町を取り巻く諸問題の解決、阿賀浦村・満日村との合併、県立高等女学校の誘致、上水道建設などに取り組みました。
名町長として慕われた鈴木寅五郎を称えるこの碑は、かつて彼の教えを受けた塾生たち(鈴門会)によって、昭和30年8月に建立されました。

桂家墓所

正法寺墓地の一番奥、石垣の上には、江戸時代に新発田藩新津組の大庄屋を務めた桂家の歴代当主の墓所があります。宝暦11(1761)年、3代桂誉春(たかはる)が新発田藩から田家山を与えられ、一帯は桂家の土地となっていました。そのため、正法寺が移転してくる前から、桂家の墓所はこの場所にありました。
墓所は、階段を上って右側(南側)が本家の墓所、左側(北側)が分家の墓所と、大きく2つの区画に分かれています。本家の墓所は中央に初代誉秀(たかひで)の墓があり、そこから西に向かって順に5代成章(しげあき)まで、初代の東隣には6代誉正(たかまさ)の墓があり、そこから東に向かって11代誉達(たかなり)までと歴代当主の墓が並び、その後ろに歴代当主の夫人、家族の墓が整然と並んでいます。

参考文献

  • 『新津市史』
  • 新津市立記念図書館編『新津市の文化財 第1集 いしぶみ編その1』(新津市教育委員会、1977年)
  • 新津市図書館編『新津市の文化財 第5集 石仏と石塔』(新津市教育委員会、1981年)
  • 新津市秋葉寿楽会『創立三十周年記念誌』(1993年)
  • 郷土に親しむ会編『新津のいしぶみ』(1996年)
  • 新津郷土に親しむ会『新発田藩 越後蒲原の大庄屋 桂家』(2021年)

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