西地区の歴史

最終更新日:2012年6月1日

原始・古代

 佐潟周辺の大藪遺跡や曽和の六地山遺跡などの発掘により、砂丘地で縄文時代・弥生時代の石器・土器などが、平野部では平安時代の土器や中国から輸入された陶磁器、銭貨などが出土しており、かつてこの地に住んだ人々の暮らしの様子を垣間見ることができます。

大治水事業・新川開削

 三潟(鎧潟、田潟、大潟)など多くの潟が点在する湿地帯であったこの地域では、人々は度重なる洪水に苦しんでいました。18世紀中ごろから、藩や幕府へ海への放水路(新川)の開削について陳情を行ってきたものの、その願が聞き入れられるのは18世紀になってからのことでした。
 しかし、三潟の水を海へ放水するためには、途中に横たわる西川を横切らなければならないこと、工事による港への悪影響を案じた新潟町民の反対、加えて、財政難のため工事費用については地元負担、と困難な課題が山積していました。この難事業に対し、三潟周辺の庄屋たちは「たとえ私財全てを失い、家族離散となろうとも」との悲壮な覚悟をもって取り組んだといわれています。
 着工から2年後の1820年、ついに三潟の水は西川の川底に設置した底樋を通り海へと注ぎ始めました。これにより、水害は緩和され、一部の湿田は乾田と変わるまでとなりました。また、その後改修工事が重ねられたことで、内野には工事に関わる人、その生活を支える様々な職業の人々が集まることとなり、周辺一体の繁盛につながりました。

農業

 明治以前の作物については資料に乏しいながらも、米のほかに麦、さつまいも、大根などが作られていたのではないかといわれています。
 明治後期ごろ導入された養蚕業は次第にさかんになり、昭和初期に最盛期を迎えますが、第二次大戦初期から下降気味となり、戦火が激しくなると食糧増産と言う国策もあって桑園のほとんどがさつまいも類に作替えされました。
 戦後、農地解放の実現とともに意欲的な農家によりさまざまな作物の栽培が試みられ、現在、西地区を代表する作物となったすいかもこのころから盛んになりました。
 球根類、タバコ、果樹などの作物が栽培されるようになりました。
 その後、タバコの廃作により耕作放棄地が目立つようになりましたが、砂丘地を中心に「いもジェンヌ」というブランドさつまいもが栽培されています。

行政区のうつりかわり

 明治22年の町村制施行で内野村、河西村など6か村が成立し、明治34年の合併で内野、赤塚、中野小屋の3か村になりました。内野村は昭和3年に町制へと移行し、昭和35年に内野町が、翌昭和36年には赤塚村、中野小屋村が新潟市と合併し、現在の西区西地区と称される地域の誕生となりました。

文教地区への変貌

 昭和45年に始まった新潟大学の五十嵐キャンパスへの移転を皮切りに、いくつもの教育機関が西区管内に次々と設けられました。西地区においては、高校では、昭和50年に新潟西高校、昭和59年には新潟文理高校(のち「日本文理高校」と改称)が開校、また平成6年には新潟国際情報大学が開学するなど、西区を文教地区として特色づけています。

参考文献:内野町誌(若杉元喜 編集・発行)

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