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江南区の歴史

更新日:2012年6月1日

江南区の歴史

亀田地区の歴史

6,000年におよぶ歴史を持つ亀田郷

駒首潟遺跡で発見された習書木簡の画像
駒首潟遺跡で発見された習書木簡(赤外線写真)

 亀田地区は、信濃川、阿賀野川、小阿賀野川に囲まれた低湿地である亀田郷の中心に位置しています。昔は幾多の浸水被害がありましたが、現在は河川の改修等により水害は発生しなくなりました。最近5年間の平均気温は14.0度、最低気温は-5.9度、最高気温は38.2度です。雪国ではありますが、平均の最深積雪量は39cmと、さほど深くありません。
 縄文時代前期(紀元前4,000年)の城山遺跡にはじまり、紀元前3,000年の砂崩遺跡、紀元前2,000年の日水遺跡、弥生時代(紀元前200年)の養海山遺跡、弥生時代(紀元100年)の武左衛門裏遺跡、古墳時代(4世紀)の下西遺跡、平安時代(9世紀)の中の山遺跡、10世紀の牛道遺跡、鎌倉時代(14世紀)の荒木前遺跡、鎌倉時代(15世紀)の三王山遺跡と、数々の貴重な遺跡が発見されています。
 また、平成18年(2006年)には、平安時代前期(9世紀前半から10世紀初頭)の駒首潟(こまくびがた)遺跡が新たに発見され、越前の国(福井県)の豪族「足羽臣(あすはのおみ)」の名が刻まれた木簡が出土し、すでに1,000年前から人の交流があったことがわかりました。

亀田大通の画像
大型店舗の出店が進んだ亀田大通り

 1596年(慶長年間)に袋津村が開村したと伝えられ、元禄6年(1693年)、中谷内新田から「亀田町」と改名し、翌元禄7年(1694年)に六斎市を開設して発展の基礎が築かれました。
 明治22年(1889年)に町制施行後、明治34年(1901年)に袋津村、大正14年(1925年)に早通村と合併しました。昭和初期から大規模な土地改良事業が行われ、湿田に悩まされた亀田郷一帯は乾田化した美田に生まれ変わり、農業生産が飛躍的に向上しました。
 現在は亀田郷の中心として、交通の要衝としての利点を活かし、商業・工業・近郊農村・住宅地区として発展しています。
 平成19年4月1日、本州日本海側初の政令指定都市が誕生し、亀田地区・横越地区、曽野木地区、両川地区、大江山地区で構成された江南区がスタートしました。

横越地区の歴史

江戸時代には大庄屋所在地、城下町として繁栄

横越の古文書の画像
「永禄六年北国下りノ遣足」(国立歴史民俗博物館所蔵)に記載された「横越(ヨココシ)」

 平野部では最も古い砂丘列があり、今から約5,000年前の縄文時代前期末から人々が住んでいた形跡があります。近年の町内遺跡の発掘調査成果によると、平安時代中頃の9世紀末には、すでに旧横越町の集落の原型ができていたことが明らかとなりました。古代に引き続く中世には、この地が阿賀野川・小阿賀野川の水上交通における拠点の一つとして、重要な役割を担っていたことも文献史料からうかがうことができます。
 江戸時代になると、横越は新発田藩横越組(後に蒲原横越組)の大庄屋所在地として、横越島と呼ばれた一帯の約110数カ村(旧新潟市、亀田町、横越町の大部分)を束ねる政治的中心地となりました。
 また、江戸時代初期には、沢海の地に、新発田藩の支藩である沢海藩(1万4千石)の拠点として沢海城が置かれました。沢海藩は、慶長15年から貞享4年(1610~1687年)までの77年間で廃絶、改易となりますが、その後、沢海は20年間の幕府領時代を経て、6千石を有する旗本小浜氏の知行地となり、明治維新まで陣屋が置かれていました。このため、沢海は新潟市でも珍しい城下町の景観を今にとどめています。

木津工業団地の画像
横越地区南部にある木津工業団地

 明治維新を迎えた横越は、明治初期には幾多の行政組織の再編を経験します。明治22年(1889年)、全国的な市制・町村制施行と同時に、横越、沢海、木津、二本木、小杉の各村が自治体として独立。明治34年(1901年)11月にはこの5カ村が将来の発展に備えて合併し、横越村が誕生。ここに現在の横越地域の姿が整いました。明治・大正期には、土地の拡大、生産拡充を図る人たちが急速に力を伸ばし、中でも沢海の伊藤家は県下一の大地主となりました。
 戦後、占領政策の一つとして農地解放が行われ、自作農家が次第に増えていきました。
近年、高速交通体系の整備を足がかりに工業団地の造成や宅地開発が進み、人口が増加しました。平成6年(1994年)になり人口1万人を突破し、平成8年(1996年)に町制を施行しました。
 平成17年(2005年)3月21日、新潟市を含めて13市町村が合併し、新しい新潟市が誕生しました。
 平成19年(2007年)4月1日から新潟市江南区の地域となりました。

曽野木地区の歴史

中世末から近世初頭に開発

元禄4年ころの信濃川のイラスト
元禄4年ころの信濃川の状態

 曽野木地区に江戸時代以前からあった村は、曽川(そがわ)・嘉木(かぎ)・合子ケ作(ごうしがさく)の3村と伝えられています。江戸時代初頭には信濃川の自然堤防に村が成立し、次いで内陸の低湿微高地に村々ができていったとされています。村ができた後、元禄13年(1700年)から天保5年(1834年)まで135年の間に、低湿地帯を中心に耕地の開発が進み、鍋潟新田では、米の生産高が約10倍にも増加しました。
 正保年間(1644~48)以前の信濃川は、舞潟から平賀・嘉木・曽川・本曽川・鳥原・寺地を経て現在のように日本海へ注いでおり、天野新田は白根と地続きでした。承応元年(1652年)、舞潟・木曽川間で流路バイパス工事(新川掘割)が始まり、寛文10年(1670年)完成するとこの掘割に多くの水が流れ、延宝7年(1679年)以後は本流となりました。本流だった古川は次第に浅瀬となり、増水時の遊水池の役割を果たすようになりました。しかし、ひとたび大水になると天野新田と嘉木・曽川両村間の古川跡に濁流が流れ込み、天野新田は孤立するため、寛政年間(1789~1801年)、古川跡の流れを締め切り工事嘆願が始まりましたが、周辺の村から洪水調節池を失い信濃川の破堤を招くことと、出費がかさむとして天野新田の村民全員による陳情とはなりませんでした。21歳の若さで天野新田名主になった加藤順蔵が約20年の年月をかけて尽力し、厳しい条件の下、万延元年(1860年)の締め切り工事完成へと導きました。

鳥屋野潟排水機場からの展望写真
鳥屋野潟排水機場からの展望

 明治22年(1889年)、曽川村、天野新田、嘉木村などが合併して曽野木村が誕生しました。村名は曽川・天野・嘉木から一字ずつを採ったものです。曽野木村、山潟村の一部が、明治34年(1901年)、合併して曽野木村となりました。明治40年代から大正初期にかけて、次々に揚排水機が設置されましたが、大正2年(1913年)の大洪水「木津切れ」には全く無力でした。
 昭和23年亀田郷耕地整理組合が設立され、干田化工事が行われました。かつて「芦沼」と呼ばれ、工事前、水田の70パーセントを締めた湛水地はみごとに乾田化され、県内有数の米産地に生まれ変わりました。
 昭和32年(1957年)5月3日、新潟市に編入合併しました。昭和42年に始まった曽野木団地の建設により、専業農家は急速に減少しました。
 平成19年(2007年)4月1日から新潟市江南区の地域となりました。

両川地区の歴史

戦国期から近世初頭に開発

酒屋太々神楽「宇津女(うづめ)」
八坂社・諏訪社合殿の祭りに奉納される酒屋太々神楽

 伝承によれば、両川の各村の開発は、天文年間(1532~1554年)から慶安年間(1648~1651年)にかけての時代に行われ、これは中世戦国時代から近世江戸初期にあたっています。
 村の開発者は草分と呼ばれ、いわゆる旧家でした。草分百姓は代々庄屋職を継ぎ、村の統治者として大きな力を持ち、あとから来た農民は、草分百姓をワラジオヤとして一時抱えられる形をとり、機会があれば棟株を買うとか、ヤマゴロエンモチとして分家に出してもらってはじめて一人前の村人の仲間入りができました。
 明治初期に、新潟市の伝承芸能として知られる「太々神楽」が伝習されました。
 明治34年(1901年)11月1日、和舞村・割野村・嘉瀬村・酒屋村の4村が合併して両川村となりました。両川の地名は2つの川(信濃川・小阿賀野川)に由来して名付けられました。

両川船着場
両川船着場

 河川交通全盛時代には、北前船の寄港する新潟港から会津や上州へ物資を流通させる船着場として繁栄しました。また在郷町として商工業が発達し、豪農や豪商が活躍しました。
 昭和32年(1957年)5月3日、新潟市と合併。戦後は、亀田郷6,000ヘクタールの農地の大半の耕地整理事業が実施され、舟堀用水の不足、更に機械農業等の営農形態の変化に対応するため、昭和41年(1966年)に当時としては画期的な1筆40アールの大型ほ場を第2次構造改善事業として実施し、昭和42年(1967年)に完成。昭和47年(1972年)5月22日、昭和天皇の行幸の一事業として、一枚田2.8ヘクタールの水田で直播作業を天覧に供しました。現在では、地元有志により昭和天皇行幸記念碑が建てられています。
 平成19年(2007年)4月1日から新潟市江南区の地域として現在に至っています。

大江山地区の歴史

亀田郷で最も古い歴史を持つ地域

深鉢形土器の写真
笹山前遺跡から出土した縄文時代の深鉢形土器

 大江山地区は、亀田郷の村々の中で最も歴史が古い地域です。特に蔵岡・笹山から横越村駒込・亀田町袋津へと連なる通称山通(やまどおり)と呼ばれる砂丘には、縄文時代以降の遺跡が多く点在しています。また、松山・直り山から茗荷谷(みょうがだに)、丸山へと続く砂丘や、大淵・西野など阿賀野川の旧堤防上にも奈良・平安時代の遺跡が多く見られ、この地域に古くから人々が生活してきたことを示しています。
 大江山地区の中で最も古い開村の伝承を持つのは大淵で、室町中期の嘉吉・文安(1441~49年)ころ開村したと伝えられています。蔵岡、細山、笹山は、安土・桃山時代の元亀・天正年間(1570~92年)にかけて、江口は慶長・元和(1596~1624年)ころ開発されたと伝えられ、江戸時代の初期までにすべての村が誕生したと考えられています。
 新田開発が行われ、西野以外の大江山地区の村高は、元禄13年(1700年)に約1,783石だったものが、天保5年(1834年)には約1,149石(約64パーセント)も増えて、約2,932石になっています。

直り山神楽の写真
諏訪神社祭に150年の歴史がある直り山神楽を奉納

 嘉永年間から伝わる「直り山神楽」は一度途絶えましたが、地域の人々の力で昭和54年に復活し、諏訪神社祭に奉納されています。
明治22年(1889年)、山岡村、山通村(154戸)、大淵村(301戸)、江口村(207戸)の四カ村が成立しました。明治34年(1901年)、四村が合併して大江山村となりました。村名は四村名から一字ずつ取って組み合わせたものです。
 昭和32年(1957年)5月3日、大江山村は新潟市に編入合併しました。
 平成19年(2007年)4月1日から新潟市江南区の地域となりました。

亀田郷の説明 ~亀田郷はベネチアか!?~

河川に囲まれたゼロメートル地帯

 私たちの江南区は、「亀田郷」と呼ばれてきた地域の中心に位置します。「亀田郷」の概念なしには、江南区を語ることはできません。「亀田郷」は江南区のアイデンティティなのです。
 「亀田郷」とは、現在の新潟市中央区と東区の南部、江南区のほぼ全域にまたがり、信濃川、阿賀野川、小阿賀野川に囲まれた地域の総称です。古くは横越島といわれ、大正時代から亀田郷と呼ばれるようになりました。夏は緑、秋は黄金色のじゅうたんがどこまでも見渡せる田園風景、それでいて大型商業施設や工業団地が林立する風景……これが今の江南区の姿ですが、このように多様な土地利用がされるようになったのはそんなに昔のことではありません。半世紀ほど前までは湖のような湿田が広がり、点在する集落は湖水に浮かぶ島のようだったといいます。
 亀田郷は河川に囲まれ、海面より低いゼロメートル地帯がその土地の2/3を占めているため、古くから幾多の洪水の被害に苦しめられてきました。また、司馬遼太郎の「街道を行く~潟のみち」で紹介されているように、水田は湖と見まごうばかりで「芦沼」と呼ばれ、腰まで水に浸かっての田植え、田舟を押しての稲刈りなどの過酷な農作業の連続でした。

湿田を乾田に・・・重ねられてきた努力

以前の亀田郷の農作業
以前の亀田郷の農作業

 湿田を乾田に変えるために様々な努力が重ねられてきましたが、阿賀野川と信濃川を収めることが必要でした。信濃川では流域住民の悲願であった大河津分水が明治42(1909)年に着工され、昭和2(1927)年に完成。また、大正2(1913)年の水害を機に洪水の元凶である阿賀野川の改修工事が始められ、19年を経た昭和8(1933)年に完成しました。これらの工事により亀田郷の水害の危険性は大きく減少しました。

亀田郷の美田(現在)
亀田郷の美田(現在)

 一方で、郷内のたまり水の排水のための取り組みも行われました。20世紀初頭から動力ポンプによる排水機が導入され、戦時中から亀田郷一帯の用排水工事が始まり、昭和24(1949)年に当時東洋一とうたわれた規模の栗ノ木排水機場(東区)が完成し、亀田郷の排水機能を飛躍的に向上させました。これにより、近くの鳥屋野潟の水位が90cmも下がったほどでした。また、あわせて大規模な土地改良工事が始まり区画整理や用排水路が整えられていきました。これらの行政単位の枠を超えた、治水利水の取り組みにより、今日のような日本一の美田といっても過言ではない優良農地に生まれ変わったのです。

 現在ここに住む私たちは、これらの古くからの壮絶な水と土との闘いの歴史があったことを実感できない生活をしていますが、先人たちの不撓不屈の努力に感謝し、市内外の人に、次代を担う子供たちに伝えていきたいと思っています。

亀田郷は、米・野菜の一大供給地帯

 国内でも指折りの穀倉地帯に変貌した亀田郷ですが、肥沃な土壌を生かし、米以外にも野菜や果物の生産が盛んです。江南区でも品質の高い農作物がたくさん作られており、梅、長いも、梨、そらまめ、とうもろこし、ししとうなどは県内有数の産地となっています。

水に囲まれた地域で舟運が発達し、商業が栄えた

小阿賀野川と信濃川の合流点と亀鶴橋
小阿賀野川と信濃川の合流点と亀鶴橋

 亀田郷→水郷→水の都といえばイタリアの水の都「ベネチア」を連想しますが(!!)、同じ「低湿地」という観点から、意外に多い「水の都ベネチア」との共通点を見つけました!

 土地の低い亀田郷ですが、砂丘列も多く、そこを中心に古くから集落ができていました。亀田地区は新潟方面からの舟運と会津からの陸路の結節点である利点を生かし、織物や生活物資などを運ぶ商業が栄えていました。特に亀田縞(綿織物)を扱う商人は関東や北海道にまで販路を開拓していました。横越地区木津は鎌倉時代から戦国時代末までに登場する木津氏と関係が深い湊町と考えられており、阿賀野川は越後と会津を結ぶ交易水路として重要な動脈だった古い歴史があります。酒屋地区は阿賀野川と信濃川の舟運を生かして船着場として繁栄し、材木の一大集積地となって豪商が活躍しました。

「潟」のつく地名がとても多い(ベネチアも世界遺産の名称は「ベネチアとその潟」です)

鵜ノ子潟の碑
鵜ノ子潟の碑

 亀田郷は信濃川と阿賀野川が運んできた土や砂によって埋め立てられてできたため、たくさんの沼や潟がありました。長潟、丸潟、鍋潟、前潟、べら潟、そえ潟、面潟、鵜ノ子潟、果ては泥潟……古地図に出てくる潟の名称や地名です。今ではほとんどの潟は埋め立てられましたが、今でも地名が多く残っており、水鳥の飛び交う、芦の茂った潟の様子を想像することができます。

道路は水路の跡

あんこ船
あんこ船

 湿地を開発して作られた地域のため水路がたくさんありました。集落に入ると、蛇行した広い道路を見かけますが、道路と並行する水路を埋め立てたために広がったものも多いのです。幅の広い川はあんこ舟と呼ばれる木造船が人や物資を運んだり、狭い堀は地域の生活用水や排水路として使用されていました。

亀田郷のお話

亀田郷の歴史解説や、こぼれ話を掲載しています(江南区郷土資料館作、全26話)。

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江南区役所 地域課
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電話:025-382-4619 FAX:025-381-7090

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