市報にいがた 令和7年12月07日 2852号 1面・2面
最終更新日:2025年12月07日
歌人?書家?美術史学者?教育者?文人 會津 八一
今号は、新潟市初の名誉市民である會津八一(あいづやいち)と、功績を後世に伝える施設「會津八一記念館」を紹介します。
問い合わせ 文化政策課(電話:025-226-2563)
文人とは
文学などに精通した学問的教養と詩や文章、書画などの芸術的才能を兼ね備えた知識人のこと。
會津 八一ってどんな人?
詳しい人に聞きました
會津八一記念館 学芸員
湯淺(ゆあさ) 健次郎さん
文人 會津八一
明治から昭和にかけてさまざまな分野で才能を発揮した、新潟市出身の「文人」會津八一は、類いまれな歌人であり、孤高の書家であり、優れた美術史学者であり、教育者でもありました。各分野で作品や功績を残していて(詳しくは2面)、「新潟日報」の題字や老舗菓子店「大阪屋」の看板を書いたことで知られています。八一が詠んだ短歌を石に刻んだ歌碑も各地にあり、県内では県立図書館や県立新潟高校など16カ所、県外にも奈良の法隆寺や東大寺など、30カ所以上に建てられています。
「新潟日報」の題字
「大阪屋」の看板
法隆寺にある歌碑
「秋艸道人」を名乗る
「八一」という名前は誕生日が8月1日だったことから付けられたといわれています。八一は雅号(がごう)(ペンネーム)を「秋艸道人(しゅうそうどうじん)」としていて、「秋艸(秋の草)」は、8月(暦の上では秋)生まれであることと、草花を育てるのが得意だったことに由来します。「道人」とは学問・芸術の道を探求する人という意味です。
自書印(秋艸道人)
萩、菊、葉鶏頭(はげいとう)などをたくさん育てていた
地元新潟の文化振興に貢献
新潟出身や縁のある偉人はたくさんいますが、八一は晩年故郷の新潟に帰り、地元の文化振興に貢献した点でも高く評価されています。新潟で講演や展覧会を精力的に行ったり、地元新聞で随筆を書いたりしました。
八一が生活した「秋艸堂」では多くの市民に文化芸術の話を惜しみなく伝え広めたといわれています。こうした功績が評価され、昭和26年3月に新潟市初の名誉市民に選ばれました。
名誉市民とは
市民や新潟市に関係の深い人物のうち、学術や技芸、文化の進展または新潟市の発展に多大な貢献をし、その功績が顕著で市民から深く尊敬される人に与えられる称号のこと。
新潟が生んだ文人 會津八一が残した功績
歌人、書家、美術史学者、教育者など、さまざまな顔を持つ會津八一の歩みと、各分野での功績を紹介します。
歌人 會津八一
全て平仮名書きで、万葉調のおおらかな歌いぶりが特徴です。歌の音を大切にし、技巧を凝らした歌でなく自身の感動を素直に詠む歌を好みました。八一の歌は歌人・齋藤茂吉(もきち)なども高く評価しています。
おほてらの まろき柱(はしら)の 月影(つきかげ)を
土(つち)にふみつつ ものをこそ思(おも)へ
解説
月の光を受けた唐招提寺(とうしょうだいじ)金堂の円柱。その長い影を踏みながら行きつ戻りつ、古い奈良の都を思い、遠い世のギリシャの神殿を思う。古代への憧れを詠んだ八一の代表作。
書家 會津八一
左利きだった八一は幼い頃、個性が強く右手で書道の手本通りに書くのが苦手でした。
八一独自の書の形は中国古代文字をはじめとした、さまざまな文字を研究し、一字一字を大切にすることで作り上げられました。
之(これ)を涵(ひた)すこと海の如(ごと)し
之を養うこと春の如くす
解説
学問や見識を自然に染み込むように養い育てることの重要性を説いた言葉。
美術史学者 會津八一
東洋美術史の中でも主に奈良時代の美術などを研究していて、実物と文献資料を車の両輪のように駆使する「実学論」を実践していました。学位論文「法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究」は、従来の美術史の学説と異なる説を唱えたもので、学界に新風を吹き込みました。
教育者 會津八一
中学校や大学などで教壇に立った八一は、厳しくも優しい風変わりな先生だったといわれています。受験に挑む学生に向けて人生の指針を示した「学規」四則は、後に自らの座右の銘にもなりました。
「学規」四則
- ふかくのこの生を愛すべし(自分の命を大切にし、愛しなさい)
- かへりみて己を知るべし(自分自身を深く理解し、反省しなさい)
- 学芸を以て性を養ふべし(学問と芸術を通じて人間性を磨きなさい)
- 日々新面目(しんめんもく)あるべし(毎日新しい自分を創造し続けなさい)
會津八一の歩み(年表)
| 明治14年 | 0歳 | 8月1日、新潟市古町通5番町に生まれる。 |
| 明治33年 | 19歳 | 新潟県尋常中学校(現 県立新潟高校)を卒業。 |
| 明治34年 | 20歳 | 「東北日報」の俳句選者に。 |
| 明治39年 | 25歳 | 早稲田大学文学科を卒業。上越市(旧板倉町)の私学有恒(ゆうこう)学舎(現 県立有恒高校)の英語教師に就任。 |
| 明治43年 | 29歳 | 有恒学舎を辞職し、早稲田中学校の英語教師に就任。 |
| 大正3年 | 33歳 | 「学規」四則(上)を定める。 |
| 大正7年 | 37歳 | 早稲田中学校教頭に就任。 |
| 大正13年 | 43歳 | 歌集「南京新唱」刊行。 |
| 大正14年 | 44歳 | 早稲田中学校を辞職。 |
| 大正15年 | 45歳 | 早稲田大学で「東洋美術史」を教え始める。 |
| 昭和6年 | 50歳 | 早稲田大学文学部教授に就任。 |
| 昭和8年 | 52歳 | 学位論文「法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究」を刊行。 |
| 昭和9年 | 53歳 | 文学博士となる。 |
| 昭和13年 | 57歳 | 早稲田大学文学部に藝術(げいじゅつ)学専攻科が設置され、主任教授に就任。 |
| 昭和15年 | 59歳 | 歌集「鹿鳴集(ろくめいしゅう)」刊行。 |
| 昭和20年 | 64歳 | 早稲田大学教授を辞任。空襲で自宅が全焼し新潟に帰郷。 |
| 昭和21年 | 65歳 | 夕刊新潟社の社長に就任。 |
| 昭和22年 | 66歳 | 歌集「寒燈集(かんとうしゅう)」と書画図録「遊神帖」を刊行。 |
| 昭和26年 | 70歳 | 新潟市の名誉市民になる。「會津八一全歌集」を刊行し、読売文学賞を受賞。 |
| 昭和28年 | 72歳 | 宮中歌会始(うたかいはじめ)に召人(めしうど)として臨席。 |
| 昭和31年 | 75歳 | 冠状動脈硬化症で逝去。 |
開館50周年 會津八一記念館に行こう
当館は昭和50年(1975年)に開館しました。約1万2千点の作品資料を所蔵していて、年4回開催する展覧会ごとに作品を入れ替えています。所蔵品が多いので常設の展示はなく、何度来ても毎回異なる作品を見ることができるのが魅力です。
開館50周年を迎えた今年度は、節目の年にふさわしい、魅力ある展覧会を開催しています。この機会にぜひ当館にお越しください。
各種イベント、講演会なども随時開催しているので、ホームページなどをチェックしてください。
施設情報
開館時間 午前10時から午後6時 ※月曜(祝日の場合は翌日)、展示替え期間、12月28日から1月3日は休館
入館料 一般500円、大学生300円、高校生200円、小・中学生100円 ※土曜・日曜、祝日は中学生以下無料。展示内容で異なる場合あり
場所 中央区万代3-1-1 メディアシップ5階
JR新潟駅から徒歩約15分
新潟交通バス停 「万代シテイ」下車 徒歩約1分
開館50周年記念展覧会「ベスト・オブ・會津八一」
同館の作品資料の中から、過去の来館者アンケートで人気だった作品や学芸員お薦めの作品、特徴ある作品など、厳選した見応えある作品を展示します。同時開催で、八一の歌を写真で表現するフォトコンテストの入賞作品も展示します。
会期 12月16日(火曜)から3月22日(日曜)

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