市報にいがた 令和6年5月5日 2814号 1面から3面

最終更新日:2024年5月5日

73年ぶりの名誉市民 佐野藤三郎

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  • 目標 2:飢餓をゼロに
  • 目標 9:産業と技術革新の基盤をつくろう
  • 目標 11:住み続けられるまちづくりを
  • 目標 17:パートナーシップで目標を達成しよう

 名誉市民選考委員会への諮問や新潟市議会での議決を経て、故佐野藤三郎(さのとうざぶろう)さんを4人目の名誉市民に選定しました。今号では、佐野藤三郎さんの功績を紹介します。

問い合わせ 秘書課(電話:025-226-2045)

佐野藤三郎さん
佐野藤三郎さん

名誉市民とは
 市民や新潟市に関係の深い人物のうち、学術や技芸、文化の進展または新潟市の発展に多大な貢献をし、その功績が顕著で市民から深く尊敬されている人に与えられる称号のことです。

3つの分野での主な功績

農業の功績

 多くの土地改良事業に取り組み、「芦沼(あしぬま)」と呼ばれた湿田を日本有数の穀倉地帯に変えたことで、新潟市の農業の発展に大きな功績を残しました。新潟地震の時には、震災からの復興に尽力し、農地や農業用施設の復旧などに取り組みました。排水改良の取り組みを通じて、浸水対策の面で市民の安心・安全の確保にも大きく貢献しました。

まちづくりの功績

 昭和中期から、急速な都市化の進行を背景に農地転用が急増していく中、まちの発展と農業の健全な調和に向け、都市と農村が共に発展できる地域づくりに取り組みました。この理念は、現在の「都市と農業が調和する新潟市」の形成・発展につながるなど、新潟市のまちづくりに大きな影響を与えました。

国際交流の功績

 中国政府からの要請を受けて、黒龍江省三江平原(さんこうへいげん)の農業開発へ積極的に協力し、中国の大食料生産基地の実現に向けて奔走しました。この取り組みをきっかけに、「新潟県日中友好協会」や「日本海圏経済研究会」を設立するなど、環日本海を軸とした経済交流の流れを作り、新潟市の国際交流の先駆者として大きな功績を残しました。

市長より

中原八一市長

 この度、佐野藤三郎さんを73年ぶり4人目の新潟市名誉市民に選定しました。佐野さんは、類まれな行動力と統率力で、今日(こんにち)の新潟の礎を築かれた方です。かつて、「地図にない湖」といわれた湿田を美田へと変え、新潟地震からの農業の復興にも力を尽くされました。今では、新潟市の米の産出額や水田耕地面積は全国1位となりました。また、1960年代ごろから都市化が進行する中、都市と農村が共に発展できる地域づくりに取り組まれました。さらに、佐野さんの活動は海外にも及び、当時、大湿地帯であった中国黒龍江省三江平原の開発計画に「自らの経験が中国農業の役に立つのなら」と積極的に協力されました。新潟県日中友好協会を立ち上げるなど、まさに本市の国際交流の先駆者であり、さまざまな分野で功績を残されました。

 佐野さんが礎を築いてくれた、新潟市の「都市と田園が調和し暮らしやすい」という強みを最大限生かし、本市を活力ある日本海側の拠点都市に成長させていきます。

 昨年、「食の新潟国際賞財団」が佐野さんを紹介するマンガを制作しました。本市では、これを小学3年生・4年生が学校で使用するタブレット端末で読めるようにしています。

 名誉市民となられたことをきっかけに、より多くの皆さまに佐野さんのことを知っていただき、次の世代へと受け継がれるよう、功績を広く発信してまいります。

新潟市長

中原八一

越後のお父(と)っつぁま 佐野藤三郎ってどんな人?

佐野藤三郎にまつわるエピソードを紹介

※参考:「まんが にいがた偉人伝 佐野藤三郎」

ちょっと福井へ行ってくる

イラスト

 昭和39年に発生した新潟地震で、亀田郷は大きな被害を受けました。亀田郷の被害と、昭和23年に福井で起きた大地震の被害が酷似していることを知った佐野さんは、復旧作業の最中、1人で福井へ向かいました。
 そこで学んだ国の災害査定の知識を生かし、国や県へ粘り強く説明と陳情を繰り返したことで、親松排水機場が建設され、亀田郷は新潟地震以前よりも良い状態へと変わるのです。

したたかな武士

「亀田郷には佐野藤三郎という大変な傑物がいる」――司馬遼太郎

 高度経済成長期に農地が売られて都市開発が進み、農業の衰退が不安視される中、佐野さんはむしろその活力を農業や亀田郷のために取り込もうとしていました。昭和を代表する作家・司馬遼太郎は、亀田郷を訪れて佐野さんに会い、「都市化の波に感傷的に反対することはすこしもなく むしろ現実をふまえ ときに利用したり 逆手にとったりして 亀田郷に理想的な農村地帯をつくりあげようとしている点 したたかな武士といえる」と評しました。

この男は「本物」

イラスト

 当時の中国の首相から「亀田郷の農業技術を学びたい」と要請された佐野さん。昭和54年、調査のため中国の三江平原を訪れました。国交が正常化したばかりで、現地の中国人技術者たちは日本人である佐野さんたちによそよそしい態度。そんな中、佐野さんが田んぼに入って稲を触り、中国人技術者たちに話しかけると、彼らの態度が一変。言葉が通じなくても行動で、農業に携わる者として佐野さんは「本物」だと認められたのでした。

新潟市の名誉市民を紹介

3人は昭和26年3月に名誉市民に選ばれました。

會津八一(あいづやいち)

生:明治14年8月1日
没:昭和31年11月21日

會津八一

 昭和21年から新潟市に居住し、夕刊新潟社の社長を経て、新潟日報社社賓として社会文化面に貢献しました。東洋美術史、特に奈良美術に関する国内の権威として、その深い見識で学界に影響を与えました。また書家・歌人としても知られ、近代を代表する芸術家として高く評価されています。
※関連記事を5面に掲載

荻野久作(おぎのきゅうさく)

生:明治15年3月25日
没:昭和50年1月1日

荻野久作

 明治42年に東京帝国大学医学部を卒業後、同大学産婦人科教室で研究を続け、明治45年に竹山病院産婦人科医長に就任。臨床の傍ら産婦人科の研究を続けました。研究は受胎に関するものが多く、50編を超える論文を記述しました。中でも、排卵期と受胎期に関する研究は画期的学説として著名であり、日本医学界の至宝ともいわれています。

澤田敬義(さわだけいぎ)

生:明治6年12月3日
没:昭和27年2月7日

澤田敬義

 明治43年に新潟医学専門学校が創立された際、同校の内科学教授となり、大学昇格にも尽力しました。大正14年に新潟医科大学の学長に任命され、長年にわたり医学界に尽くしました。特に「つつが虫病」や新潟県の地方病に関する研究は、学界に大きな影響を与えました。優れた人格と学識経験で学生を育成し、優れた人材を輩出しました。

新潟の発展に尽くした佐野藤三郎

佐野藤三郎の主な経歴

大正12年   中蒲原郡石山村(現在の新潟市東区)中木戸で誕生
昭和30年 32歳 亀田郷土地改良区の理事長に就任。現在価格で約144億円に上る土地改良区の借金返済に奔走
昭和39年 40歳 新潟地震が発生。被災した農地の復興や、新たな排水機場の整備促進に力を注ぐ(昭和43年に親松排水機場が完成)
昭和50年 51歳 農村と都市部が共存した地域の発展に向けて、財団法人亀田郷地域センターを設立。理事長に就任
昭和51年 52歳 第一次亀田郷農民友好訪中団を組織し、団長として中国を訪問
昭和53年 54歳 第二次亀田郷訪中団の団長として北京を訪問。中国から「三江平原農業開発計画」への協力要請を受け、同計画を日本の国際協力事業とするよう奔走(平成14年に竜頭橋ダムが完成。三江平原の食料生産量は3.3倍へと増加)
昭和60年 62歳 日本海圏経済研究会を設立。ロシアや中国との国際交流促進のため、国際シンポジウムなどを積極的に開催
平成元年 65歳 「未来農業を考える会」を主宰。新潟の農業の将来に向けた、さまざまな構想・計画を立案
平成4年 68歳 第10回アジア・アフリカ賞受賞
平成6年 70歳 農林水産大臣賞(ダイヤモンド賞)を受賞。同日夜、くも膜下出血で倒れ、翌日逝去。正六位勲四等瑞宝章を受章

佐野さんのことをよく知る人物に話を聞きました。

杉本克己さん
亀田郷土地改良区 前理事長
杉本 克己さん

行動力があって気さくな人

 佐野さんは32歳で亀田郷土地改良区の理事長に就任してから、類まれな行動力で地域をまとめ、時には国にも直接働きかけ、さまざまな事業を進めてきました。
 理事長に就任してからの最初の仕事は、現在価格で約144億円にも上る借金の返済。佐野さんが大蔵省(現在の財務省)にいきなり支援を求めに行ったにもかかわらず、大蔵省の官僚はその真剣さに心を打たれ、力になってくれたそうです。その後、大蔵省で新しく農林担当になった官僚が佐野さんを訪れ、農家の現状を学び、夜は酒を酌み交わす「佐野学校」ができたというエピソードは、佐野さんの親しみやすい人柄をよく表していると思います。
 私が佐野さんと出会ったのは23歳の時。第一次亀田郷農民友好訪中団として、当時52歳の佐野さんたちと中国へ行き、そこから親交を深めました。佐野さんは30歳も年が離れている私と「友だち」のように接してくれる気さくな人でした。

意思が引き継がれ新潟が発展することを願う

 かつて、亀田郷は「芦沼」と呼ばれる泥深い田んぼが一面に広がり、農民たちは腰まで水に漬かりながら、大変な思いで稲作をするのが当たり前でした。その後、栗ノ木排水機場ができて、さらに佐野さんの尽力もあって親松排水機場が稼働すると、乾田化が進み、農業の生産性が向上しました。佐野さんの「自分の思いを実現させる行動力」のおかげで、今の田園風景があると思っています。また、都市化が進む現状を直視しながら、当時から「都市と農業の調和」に取り組まれた先見性と視野の広さには脱帽です。新しいことに積極的にチャレンジする姿を、私は見習ってきました。
 佐野さんの行動力の源は、「農民だけでなく故郷新潟のあらゆる人々が幸せになれるように」という思いだったのだと感じています。佐野さんの意思が次の世代に引き継がれ、亀田郷、そして新潟がさらに発展することを願っています。

亀田郷の歴史を学んだ小学生の声

小野櫻子さん
両川小学校(江南区)
小野 櫻子さん

 昨年、授業で昔の亀田郷のことについて学びました。排水機場ができる前は、胸くらいの高さまで水が増えることがあり、当時の農作業は想像できないほど大変だったと知りました。また、自分の家のある場所が、昔は水に漬かっていたと知ってびっくりしました。
 今では家の近くに公園があって暮らしやすいこの地域が好きです。大人になっても、この地域で暮らしていきたいです。

佐野藤三郎の人生をマンガで楽しく読んでみよう

 佐野さんの一生を描いたマンガを、市内の図書館で貸し出しています。

問い合わせ ほんぽーと中央図書館(電話:025-246-7700)

まんが にいがた偉人伝 佐野藤三郎

『まんが にいがた偉人伝 佐野藤三郎』

企画・監修:(公財)食の新潟国際賞財団
シナリオ:小林 裕和
マンガ作画:シャガラ
市内図書館所蔵数:21冊

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