373号(令和4年10月16日) 1ページ

最終更新日:2022年10月16日

大河津分水通水の偉人
田沢実入が残してくれたもの

信濃川と大河津分水の分岐点の航空写真

 大河津分水路空撮写真(信濃川河川事務所)

1922年(大正11年)8月25日に大河津分水は通水し、今年で100年です。 日本有数の米どころ新潟。そのおいしい米は、100年前までは鳥も食べない「とりまたぎ米」と言われていました。信濃川などの氾濫により頻繁に起こった水害に、逃げ場のない氾濫水が長期間引かないこともありました。人々の暮らしを苦しめたこの状況に立ち上がり、現在の住みよい、恵み豊かな土地を作った偉人が「田沢 実入 みのり 」です。

 

~田沢与一郎・実入親子~ 第一期工事

田沢実入は、1852年(嘉永5年)、田沢与一郎の長男として古川村(現在の白根古川)で生まれました。
父・与一郎は、新発田藩や有志らと共に大河津分水の必要性を訴え、江戸幕府に請願を繰り返し、その甲斐あって1870年(明治3年)に第一期工事が着工しました。しかし5年後「大河津分水ができると信濃川河口の水深が浅くなり、新潟港に影響が出る(港に流れ込む流量が減り、大きな船が入港できなくなる)」と外国人技師が報告したことで、無念にも工事廃止。与一郎は完成を見届けることなく、1883年(明治16年)に亡くなりました。

田沢与一郎肖像の写真 田沢与一郎肖像(信濃川大河津分水工事竣工式協賛社発行「信濃川改良工事沿革誌」より)

田沢実入肖像の写真 田沢実入肖像((社)北陸建設弘済会発行「大河津分水双書 資料編 第二巻 水の思想」より)

 

~実入の頑張り~ 横田切れ

※治水…川などを工事し、洪水にならいないようにすること

建設への思いが強かった父を近くで見て・言葉を聞き・感じていた実入は、与一郎が亡くなる2年前1881年(明治14年)に大河津分水の必要性を説いた「信濃川治水論」を発表。翌年には治水運動を展開するための組織「信濃川分水会社」を設立するなど、私財を投じ、自身の生活が苦しくなりながらも父以上に精力的に大河津分水建設を訴えました。
内務省に勤務していた1896年(明治29年)7月、新潟県全域で河川が氾濫し、現南区周辺を中心とした越後平野全域が浸水した「横田切れ」(現在の燕市横田にて信濃川堤防が300メートルにわたって決壊)が発生。数カ月間水が引かなかったため、赤痢などの伝染病が蔓延するなど甚大な被害をもたらしました。このことが、本格的な第二期工事着工のきっかけとなりました。

洪水は天災だと考え、治水を行わないとはどういうことか。信濃川の水害を無くし、この地の衰退をくい止める方法は大河津分水以外にはない。水害を引き起こす原因は「人」にあるのであって「水」にあるのではない。
(信濃川治水論より)

横田切れ絵図「横田村家族ノ惨状(よこたむらかぞくのさんじょう)」 横田切れ絵図「横田村家族ノ惨状」(長岡市 下田氏所蔵)

 

~本格的な工事~

念願だった第二期工事が始まると、実入は内務省職員として工事に従事し、地蔵堂・落水・弥彦砕石工場主任を歴任しながら、国と現場を結ぶパイプ役として活躍しました。工事にはヨーロッパから先端技術を輸入。掘削土量は10トンダンプカーに積むと、地球を一周するほどの量でした。工事の従事者は延べ1000万人。当時の日本国内の人口が4400万人だったことから、いかに多くの人々が関わる大変な工事であったかが分かります。

吐口付近開削(はきぐちふきんかいさく)工事の写真 吐口付近開削工事(信濃川大河津資料館収蔵)
日本で初めて大型機械を使用

 

~完成~

実入70歳。ついに「東洋一の大工事」といわれた工事は終わり、大河津分水は通水しました。それまで頻繁に起こっていた越後平野での洪水は劇的に減り、米などの農作物の収穫に大きな影響を与えました。父の思いを見事に成し遂げたのです。
越後平野と大いなる実りは100年の年月を超えて、今も守られ、育まれています。

大河津分水工事現場で、複数の作業員たちが通水に歓喜している写真

 通水歓喜写真(信濃川大河津資料館収蔵)

凧っこ13人衆の中蝶が「当時の喜びがとても伝わってくる写真だよね!」と言っているイラスト

 

満開になると人々の目を喜ばせてくれる大河津分水の桜。実入は通水後、桜の育成を目的に設立された「信濃川大河津分水保勝会(ほしょうかい)」の初代会長となり、現在まで続いている桜並木の礎を築きました。
白根古川にある実入の墓石は、大河津分水の方角を向いています。実入も満開の桜を見ていることでしょう。
この桜並木を見た時には、二代にわたり尽力した田沢与一郎・実入親子を思い出してください。

いく千春
かはらでにほへ
桜花

植えにし人は
よし散りぬとも

〜実入が詠んだ歌〜

いつまでも変らず この川原で
     咲き誇れ 桜の花よ
たとえ 植えた人(私達)が
      いなくなっても…

大河津分水の桜並木の写真

凧っこ13人衆の鯛町が「ステキな歌だね」と言っているイラスト

 

南区でも!
大河津分水
通水100周年イベント

白根大凧合戦初日の6月2日、白根凧合戦協会の協力により「大河津分水通水100年記念大凧」を天高く揚げました。
9月3日には「大水害から白根を守った439俵の米俵」と題して、昭和36年8月5日、早朝から増水した中ノ口川の水が旧富月橋付近で越水し始めた際、土のうの代わりに米俵を投入した現場をまち歩きで見学。その後は、役者・小林へろさんの感動的なひとり語りで、緊迫した当時の様子を振り返りました。

「大河津通水100年記念大凧」を白根凧合戦協会の皆さんが揚げている写真

役者の小林へろさんが椅子に座り、原稿を持ちながらひとり語りをしている写真

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