鉄道の歴史

最終更新日:2012年6月1日

 明治30年(1897)11月20日、北越鉄道会社の沼垂~一ノ木戸間が開通し、新津駅も営業を開始しました。やがて岩越線(今の磐越西線)および村上線(今の羽越本線)の分岐点となり、ついには「西の米原、東の新津」と言われた「鉄道のまち新津」の始まりですが、開業当初は小さな通過駅の一つに過ぎませんでした。

 以下、昭和57年に上越新幹線が開業する前までの間の新津および県内の鉄道の移り変わりをご紹介します。

 本稿は、瀬古龍雄氏が執筆し、昭和55年2月27日に新潟日報に掲載されたものを当時の新津市鉄道資料館用に再編集し、それにさらに手を加えたものです。

 “鉄道の敷設は中央から地方へ”この既成概念からいえば、長野県あたりから新潟県へ鉄道が入ってきたと思う人もいるでしょうが、本県の鉄道は、直江津を起点として長野県へ向かって出て行きました。直江津~関山間の開業した明治19年8月は、東海道線はまだ全通しておらず、中国、四国、九州の3地方には開業線は全くありませんでした。

明治の機関車・客車

 もちろん、明治の機関車はSLばかりで、それらはイギリスから輸入されたものでした。1000分の25という急勾配に挑んだ営業用の機関車はグラスゴーのダブス社製で全重35トン余りのやや大型のC型タンク機関車、その後、大田切など難所をもった建設工事にはナスミスウイルソン社製の全備重量20トン余りのC型タンク車が使われました。幹線鉄道が国有一元化された後に鉄道院でつけた形式では、“1850”と“1100”となっています。
 当初の列車は、ほとんどが混合列車(機関車が貨車と客車を同時に引いて走る)で、主要駅で貨車の入れ替え時間の間、お客は待たされていました。新潟県内では、越後線、弥彦線の一部列車、米坂線など戦後も混合列車が走っていました。
 この直江津線(信越線のことを最初はこう呼んでいました)は当初から国で建設、運転した国有鉄道で、高崎からの日本鉄道・私鉄を通じて上野まで全通したのは明治26年のことでした。
 この頃、本県第二の鉄道として、“私鉄”北越鉄道が建設工事中でした。この鉄道は直江津~新潟間を結ぼうとしたもので、途中、米山峠や塚の山トンネル、信濃川の橋りょうの建設などで資金がかかりすぎ、経営は余裕のある状態ではなかったようです。明治30年11月20日には沼垂~一ノ木戸間が開通し、新津駅が開業しました。明治31年に直江津の春日新田と沼垂の間が全通しましたが、車両は12年も前に開通した直江津線と大差なく、この線を模範にして購入したといわれています。
 建設用と入れ替え用にナスミスのCタンク(後の1100形式)2両、ダブスの1850形式と同型のキットソン製(後の1800形式)のCタンク5両を本線用として購入しています。その後新品やら中古品を寄せ集めて北越鉄道の機関車は18両を数えています。なかには逆向きに走らないと脱線した(!?)という、とんでもない中古品(米クック製13号、14号)もありました。燃料には、当時県内で広く産出した石油を使用していました。
 北越鉄道の客車は、当時国鉄がイギリス式のコンパーメント(車体側面に扉がいくつもあり室内が細かく仕切られている)を採用していたのに対し、アメリカ式の貫通通路をもった客車を採用し、中には当時珍しかった売店を持っている車もありました。しかし、単車(マッチ箱)ばかりで乗り心地のよいボギー車は一両も走っていませんでした。
 明治38年8月1日、北越鉄道(新潟~直江津)、国有鉄道(直江津~高崎)、日本鉄道(高崎~上野)の三者協定による直通旅客列車が運転されましたが、客車は単車(マッチ箱)だったのがボギー車なのかはっきりしていません。
 明治44年には、新来迎寺~小千谷(後の西小千谷)間に魚沼鉄道が開通しましたが、この鉄道は線路の間が狭い、いわゆる“軽便”で、機関車も客車も頸城鉄道をへて、新潟鉄工所大山工場の構内に保存後、県立自然科学館に移され保存されています。腐朽しやすい木製車の保存は極めて珍しいことです。
 明治の末期には、主として国防上の理由から、全国の主要私鉄が国有化されました。東北本線、関西本線、山陽本線、鹿児島本線もそのとき初めて国有化された路線です。本県でも北越鉄道が国有化され、信越線の一部となりました。

大正の機関車・客車

 大正に入ると、北陸線の全通、新津を中心に岩越線の全通、村上線の開通と、新潟の鉄道は周囲の情勢から、県内ローカルの地位にとどまっているわけにはいかなくなり、輸送力も急速に増強されていきました。この頃新津には仙台鉄道管理局の運輸事務所、保線事務所が設置され鉄道の町の基礎が固まりました。
 信越線の直江津~長野間の急勾配区間には、新鋭マレー式機関車(片側にシリンダが2つずつあり動輪がCプラスC(6軸)という強力なもの)が9両も配置され、直江津も含め各地には日露戦争に応召活躍した。B6(2120、2400形式など)が貨物用、勾配区間用に、イギリス製の優雅なビーテンと称せられたテンダー機関車(5500形式など)が平坦区間を活躍していました。これらに交じって当時では新鋭の6700形式機関車も旅客用に使用されていました。
 大正も中期以降は8620形式、9600形式など、SL末期時代まで使われた機関車も、当時の新鋭機として愛用されていました。当初20~35トン程度だった機関車重量も、マレー式では炭水車とともで100トンに近く、後の製作の8620形式や9600形式より重い機関車でした。
 大正初期の客車はまだまだ単車が多く、大正4年6月1日改正の時刻表では新津発新潟行全列車14本のうち、ボギー車を連結していたのは、上野からの直通3本だけでした。そのボギー車も東海道線などで使い古されたもので、俗に信越ボギーと呼ばれた、明治20年代製のものだったそうです。
 大正期の私鉄も、頸城、栃尾、越後、長岡鉄道など続々と誕生しました。越後、長岡の両鉄道は国鉄並みの軌間でしたが、頸城、栃尾は魚沼鉄道と同じ狭軌のいわゆる“軽便”でした。
 大正末期には、越後鉄道もボギー車を製作、国鉄のボギー車もどんどん増加しています。
 大正12年には蒲原鉄道の五泉~村松間が開通しましたが、これは県内の国鉄、私鉄を通じて営業用の最初の電気鉄道であり、車両も都内を走っていた電車と同型という当時としては近代的なものでした。

昭和(初期)の機関車・客車

 昭和初期の不景気風を吹きとばすように昭和6年7月には、難工事だった清水トンネルを通って上越線が全通しました。国境の長いトンネルを通って“雪国”にお目見えした機関車はSLではなく電気機関車(EL)でした。使われたELはED16形式で、その後EF10、11、12形式などが使われました。
 上越線全通を機会に上野~新潟間を7時間10分で結ぶ急行列車が走りましたが、石打でバトンタッチされた本県側のけん引機は、当時の新製、俊足のC51形式が使われました。このC51形式は8620形式より一回り大きく旅客用の主力機として戦前、戦後も使用され、昭和32年11月の急行「佐渡」出現のときも、最初の3か月はこのC51形式が長岡~新潟間を引き、最後は磐越西線で昭和39年9月まで使用されています。C51形式の改良機といわれるC57形式は、戦後はお召し列車を引いたり、山口線の復活SL列車を引いたりして有名ですが、戦前には新潟地区にはわずか4~5両程度の配置があった程度です。
 国鉄では、昭和に入ってから鋼製客車の製造を始めましたが、本県で鋼製の近代的客車が使われだしたのは、上越線の急行からだといわれています。戦後も昭和31年頃まで木製客車が残っていました。
 昭和8年には新潟電鉄が開通、本県3番目の電気鉄道となりました。市内線だけの豆電車の走っていたことをおぼえている人もいらっしゃるでしょう。
 やがて太平洋戦争が始まり、B29や艦載機などの爆撃で京浜工業地帯への大動脈である北海道炭の太平洋岸の海上輸送が不可能になり、昭和19年からは急きょ、日本海側などの陸上輸送に頼ることになりました。そのため、“裏”の輸送路は急に増強されることになり、列車行き違い設備のための信号場の増設、複線化など突貫工事で進められました。古津、保内、田上、東光寺などの各駅はその時に信号場として設置されたものです。
 機関車も、信越線の平野部、羽越線などは大正時代の9600形式が貨物を引いていましたが、急に強力なD51形式(俗にデゴイチといって有名)が増備され、“運炭列車”という黒ダイヤ満載の貨物列車が何本も運転されました。このときD51形式の増備のため余った9600形式は樺太に渡っています。目的は“運炭”でも羽越~信越~上越のルート強化は、戦後の輸送力の復活に大いに役立っています。

電化の戦後と新幹線時代

 戦後は石炭節約の至上命令から、上越線の石打~長岡間の電化は昭和22年8月という意外に早い時期に完成しています。機関車は、新製のEF15形式のほかに、戦時形で鋼材を節約して軽量なので、重みを付けるためにコンクリートブロックを積んだEF13形式などが活躍していました。上越線で電車が県内に入り始めたのは、電化後12年もたった昭和34年4月の準急“ゆきぐに”の長岡乗り入れからです。上越線が電化されたといっても、新潟平野での主役はまだSLでした。旅客用の主力機は、新津区で秋田国体、新潟国体、植樹祭と連続してお召し用機関車にも選ばれたC57形式で、貨物用やや勾配線区用にはD51形式やD50形式が主力でした。越後線にはC56形式、弥彦線にはC12形式、赤谷線や只見線にはC11形式、米坂線や各地の入れ替え用には9600形式が使われていました。長岡で電気機関車EF58形式(一時EF57形式のこともありました)からバトンタッチされたSLは、急行“越路”や“佐渡”をひいて越後平野を力走したものです。

 昭和37年6月、長岡~新潟間の電化が完成、電車特急“とき”1往復が上野~新潟間に運転されました。最初は1往復だけでしたが次第に増強され最盛期には14往復も運転されました。この“とき”には、東海道本線の“こだま”に使用された151系電車の勾配区間版として新しく作られた161系電車が使用されました。161系は東海道本線のお古の151系とともに強化改造されて181系電車となりましたが、昭和48年末の豪雪で大きな被害をうけ、昭和49年からは新品の183系電車が投入され、大部分この新車で運転されました。しかし、この車種転換により食堂車がなくなってしまったのは残念なことでした。
 急行用は、電化の翌年、新型の165系電車が誕生、長い間“佐渡”“米山”“とがくし”に使用されました。
 ローカル用は電化当初、関西国電のお古、モハ70形やクハ68形など計10両が転入してきましたが、サンパチ豪雪や、新潟地震で大きな威力を発揮、しだいに仲間を増やし、モハ70系と呼ばれたこの一党は最盛時には170両にも達しました。運転区間も、妙高高原、高崎、村上と範囲をのばし、赤と黄の塗り分け電車は、県内どこでも見られるようになりました。このモハ70系は昭和53年夏、緑と橙の塗り分けの115系(1000番台)電車の新車に置き換えられ、全車廃車解体されてしまいました。
 県内の電化も昭和41年に直江津~長野間、44年に直江津までの北陸線、直江津~宮内間、47年には羽越線が電化され、県内幹線の電化はこれで完成しました。
 SLも昭和47年10月2日の電化完成のときまで羽越線でD51形式が使用され、最後のSLの有火本務機としての運転は、10月3日、新津着12時32分、D511001(坂町区)の引いた2554列車でした。
 SLなきあと、非電化区間はディーゼル動車、ディーゼル機関車が運転されていますが、電化区間のELもどんどん近代化され、裏縦貫は交直両用のEF81形式に統一され、また上越線ではEF15形式やEF58形式に変わってEF64形式に統一されています。
 明治以来、鉄道車両は1年の休みもなく進歩発達し続け、100年以上も経ちました。「鉄道のまち新津」は、昭和57年秋の新幹線開通とともに停車する列車が減り寂しくなった感もありますが、平成6年には外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。JR東日本(外部サイト)初の自社車両製造工場が新津で操業を開始し、新時代の車両を産み出すなど、鉄道にとって重要な町であることに変わりはありません。

★印の写真は瀬古龍雄さん撮影。写真を無断で複製・転載することを禁じます。

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