区の歴史

最終更新日:2012年6月1日

 南区は、平成19年4月1日、新潟市の政令市移行により、旧白根市、旧味方村、旧月潟村によって構成されました。

白根地域

 新潟平野の中央にある当地に人が住み始めた年代は特定できませんが、周辺の史跡などから5世紀前後と推定されます。
 13世紀の庄瀬馬場屋敷遺跡からは、武士的性格を持つ支配者が農民を支配していたことを物語る多くの遺物が出土し、当時の様子を伺い知ることができます。
 中世末期、白根地区は小吉条と呼ばれていました。低湿地や沼地がほとんどのため、自然堤防沿いに集落が発達し、比較的標高の高い南部では、中世以前から新田開発が進められていたと推定されます。
 また、茨曽根の関根家から発見された太閤検地直前の検地帳からは、村落社会に上・中・下の階層があり、関根家が上杉氏代官に帰属する中使として統括していたことが分かります。
 近世になると白根地区は小吉郷と呼ばれるようになります。小吉郷は慶長3年(1598)新発田藩領となり、一部を除いてはその支配が明治時代まで続きました。小吉郷は120余りの農業集落がありましたが、その中で白根町は水運中継地として発展し、鉄器、繊維、仏壇などの産業が栄え、宿場町としても知られていました。
 小吉郷は、周囲を堤防に囲まれた輪中状で、郷内には多くの沼や潟があり、度重なる洪水も加わって、農民は水との闘いに明け暮れました。その中で農民は新田開発に取り組みました。造られた耕地は合計2,300町歩。しかし、新田といっても湛水田がほとんどでした。
 近代の小吉郷は、大正11年に通水した大河津分水路により飛躍的な発展を遂げました。広大な新潟平野は沃野となり、洪水のない生活が実現しました。
 明治22年、町村制が施行されると、小吉郷は白根町などの13の自治体が誕生しました。ついで明治35年の町村合併により1町8村となりました。白根郷普通水利組合が大正13年につくられてから、小吉郷は白根郷と呼ばれることが多くなり、小吉郷の呼称は自然消滅していきました。
 昭和30年、須田村を除く1町8村が合併して白根町となり、昭和34年6月1日、市制施行により白根市となりました。そして、平成17年3月21日、新潟市と合併して新たなスタートを切りました。

味方地域

 味方地区は、旧味方排水機場遺跡から縄文時代中期から後期の土器が発見され、その頃には、先住民がこの地で生活していたことが伺えます。また、曽根下遺跡から発掘された土師式土器や竪穴住居跡などから、古墳時代にはすでに人々が定住し、農耕を営んでいたと推測されています。
 中世に入ると、中ノ口川の自然堤防上に白根、味方、吉江の集落が形成されていたと推測されています。また、当時の中ノ口川は固定した流れではなく、幾度となく洪水が繰り返されていたと伝えられています。
 このことから、上杉謙信の家臣・直江山城守が天正10年(1582)から十数年の歳月を費やして中ノ口川を改修し、流路を一定にしたと伝えられ、その際、白根村、味方村、吉江村がそれぞれ旧白根市(東)側と旧味方村(西)側に分断されたといわれています。
 味方の歴史を語る上で、水との闘いは欠くことができません。中ノ口川の決壊は、長年にわたり大きな問題でしたが、祖先たちは血と汗を流し、この豊かな土地を築き上げてきました。
 新田開発が行われるようになると、信州から味方へ移住してきた笹川氏が慶安2年(1649)に村上藩の大庄屋に任命され、近隣8か村を治めました。今なお残るその邸宅は、蒲原穀倉地帯の豊かさの象徴となっています。江戸時代の味方は、村上藩、新発田藩、幕府直轄領に分かれて統治されていましたが、明治に入ると全国的に町村合併が進められ、明治22年の町村制の施行時には、吉江村以北の7村が合併して誕生した七穂村、そして、白根村、味方村の3つの村が独立して存在していました。その後、明治34年11月1日、3村が合併して味方村となり、平成13年には村制施行100周年を迎えました。
 平成17年3月21日、新潟市と合併するに至り、103年あまり続いた味方村の長い歴史に終止符が打たれました。

月潟地域

 月潟の地名は、永禄年間(1558~1570)に阿部氏が一族を従えて京都から越後に移り、湖沼荒地を開拓し、村落を興し、湖に月が映ることを引用して月潟と名づけたと伝えられています。
 月潟の地に古くから人々の営みがあったことは、釣寄地区から出土した、奈良時代のものとされる土師器の壷と須恵器の破片の発見が示しています。
 しかし、月潟の歴史を語るものは、寺院に残る書類などが、たびたび起こった中ノ口川の氾濫による大水で判読できなくなり、残念ながら古くを知る手立てを失ってしまいました。ただ、この信濃川支流の中ノ口川付近は、肥沃な土壌を備え、人々が早くから住み開拓を行い、村としての営みが始まったと考えられます。
 洪水の常襲地帯である月潟村は、中ノ口川の氾濫が年中行事のように起こったとされ、その度に収穫が水泡と帰することもたびたびあり、先人たちが多くの困難と闘ってきた苦労は、筆舌に尽くし難いものがあります。全国的にも有名で、月潟が発祥の地とされる角兵衛獅子の舞は、かつて洪水による村人の疲弊の中から生まれたとも伝えられています。
 明治時代に入ると町村合併が行われました。明治22年、上曲通村と下曲通村が合併して曲通村に、西萱場村、月潟村、大別當村の3村が合併して秋津村に、木滑村、釣寄村、釣寄新村、東長嶋村の4村が合併して中合村となりました。その後、明治39年4月1日、曲通村、秋津村、中合村の3村が合併して月潟村となりました。
 大正11年、長年にわたる村人の願いだった大河津分水路が通水すると、人々はようやく洪水の苦労から解放され、今日の実り豊かな美田をつくりあげてきました。
 そして、平成17年3月21日、先人たちが長年にわたり築き上げてきた月潟村は、新潟市と合併し、99年にわたる村制を閉じることになりました。

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