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吉田千秋について

最終更新日:2015年7月14日

※ここに掲載した吉田千秋に関する記事及び写真の転用については
「吉田文庫」(新潟市秋葉区大鹿624 電話:0250-23-7070)へお問い合わせください。

吉田千秋と「琵琶湖周航の歌」

 吉田千秋が「琵琶湖周航の歌」の原曲の作曲者と判明したのは平成5年(1993年)でした。

 「琵琶湖周航の歌」は大正6年(1917年)、滋賀県高島市(旧今津町)で旧制第三高等学校(現京都大学)の学生・小口太郎が作った詞を他の学生たちが「ひつじぐさ」の曲にのせて歌ったのが始まりで、昭和46年(1971年)には加藤登紀子が歌い大ヒットしました。何時の間にか、原曲が「ひつじぐさ」であることも作曲者・吉田千秋の名も忘れられましたが、旧制三高OBが長年の調査の末、解明しました。その吉田千秋が大正4年に東京から新潟へ転居との情報を得た今津町から新潟日報へ作曲者探しの依頼があり、「琵琶湖周航の歌」開示から75年目に吉田千秋の消息がわかったのです。

吉田千秋の生涯

 千秋は吉田東伍の二男として大鹿で生まれましたが、父が東京で仕事をしていたため、彼と兄弟姉妹は東京と祖父母のいる大鹿とで学校時代を過ごしました。

 彼は言語、地理、天文、動物学、植物学、博物学、園芸学などに興味を持ち、11歳から自筆小冊子「SHONEN」や緻密な挿絵入り「動物分類学」等を作りました。7ヶ国語使用、海外文通、ローマ字について学者と誌上論争、「やまとことば」や方言の研究もしました。

 肺結核のため入院した南湖院でキリスト教と讃美歌に触れ、作曲を学び投稿するようになりました。英詩を翻訳し自作の曲をつけた「ひつじぐさ」が「音楽界」に掲載されたのは20歳の時です。帰郷してから友達と手作りした回覧誌「AKEBONO」には地域の園芸史を見直すきっかけとなった彼の記述も残されています。大鹿教友会で讃美歌の指導をしていた彼の作曲「ふるさと近し」はその後何年も歌い継がれました。

 23歳の秋に彼は東京での治療から帰り、出迎えてくれた祖父母に挨拶しました。「どうせ死ぬんなら大鹿でと思って帰ってきました。」

 「ひつじぐさ」のメロディーが「琵琶湖周航の歌」となったことを知らずに彼は24歳になったばかりで世を去りました。

千秋の父・吉田東伍

 元治元年(1864年)生まれ、大正7年(1918年)死去 文学博士 早稲田大学教授

 東伍は阿賀野市(旧安田町)の旗野家出身で吉田家を継ぎました。

 13年に亘り力を注いで刊行した「大日本地名辞書」をはじめ、能楽研究に画期的貢献をした「世阿弥十六部集」や「利根治水論考」など多くの業績を残しました。

 阿賀野市に阿賀野市立吉田東伍記念博物館があり、生涯と業績を辿ることが出来ます。

千秋の略歴

千秋の略歴
西暦(和暦) 年齢 できごと
1895年(明治28年) 当歳 2月18日 大鹿(旧新津市)に生まれる。
1901年(明治34年) 6歳 東京で小学校入学。大鹿へ転校。
1912年(明治45年) 17歳 東京府立第四中学校を卒業。
東京農業大学予科に入学。
1914年(大正3年) 19歳 肺結核のため退学。茅ヶ崎の南湖院に入院。
1915年(大正4年) 20歳 帰郷
 訳詞作曲「ひつじぐさ」が「音楽界」に掲載される。
1917年(大正6年) 22歳 大鹿教友会(内村鑑三の無教会派)で讃美歌指導をする。
1919年(大正8年) 24歳 2月24日 大鹿で死去。

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