旧笹川家住宅

最終更新日:2022年8月12日

旧笹川家住宅について

名称

旧笹川家住宅

種類・種別

有形文化財・建造物

指定年月

昭和29年3月30日 昭和53年5月31日 平成3年5月31日

面積

敷地 約6,000坪(20,000平方メートル) 住宅建坪 約340坪(1,122平方メートル)

概要

笹川家は天正年間(1573-92年)、信濃国水内郡(みのちぐん)にいた武家で(甲斐武田氏の家臣)、当地に移住、帰農したと伝わり、17世紀半ばからは大庄屋を務めた越後の豪農でした。味方に移住ののち昭和45(1970)年にこの地を離れるまで、14代300年以上にわたり続きました。江戸時代には、村上藩の支配下になり、味方組8カ村(味方、白根、坂井、木場、黒鳥、小新、、合計8,000石)を束ねる大庄屋を務め、年貢収納の取りまとめや藩からの命令伝達のほか、藩から与えられた警察・裁判権も行使していました。笹川家は、河川改修や用排水路の開削にも尽力し、水害の多かったこの地域で新田開発に貢献してきました。笹川家の敷地は、東側正面が中ノ口川、西側裏門が.味方江に面し、近郷における用排水と水運の要地にあります。敷地の広さは、周囲の堀を含めて約6,000坪(20,000平方メートル)で、中央に約340坪(1,122平方メートル)の住宅が建っています。式のカミテ(上流側)に庭園を築き、シモテ(下流側)には、米蔵や雑蔵などの付属屋を配置しています。

現在の主屋は、文政2(1819)年6月8日に全焼した主屋に代えて、文政9(1826)年までに7年の歳月をかけて再建したもので、棟梁は村松町(現五泉市)の小黒杢右衛門(おぐろもくうえもん)です。住宅は庄屋としての役宅も兼ねた豪壮な構えで、周りに堀と土手を巡らせた長方形の屋敷(東西約100m、南北約150m)に、文政9(1821)年、表門は寛政11(1799)年に再建された主屋以下、米蔵、土蔵など10棟の建物があります。なお、主屋の居室部は文政4(1821)年、表門は寛政11(1799)年も建築です。茅葺、切妻屋根、表門からのぞく広い芝生の前提と主屋の威厳に満ちたたたずまいや緩くカーブして玄関と通用口に通じる二条の石畳の調和は美しく印象的です。

主屋は表向きと裏向きとの前後2棟に分かれている。表向きは一重の寄棟造で桁行16間半、梁間5間半~7間半、起り破風の正玄関、大広間への入口をもち、大広間の入口、庄屋等の入口である寄付の入口、質素な土間入り口の4つの入口をもち、大広間の入口では白州(味方組内での裁判)も行われていました。表向きには、半間の濡縁を巡らせた大構えで、寄付、広間、三の間、二の間、上段の間を中心として、さらにいくつかの座敷、部屋が付属しています。表座敷の南側には老樹の多い落ち着いた庭が見渡せます。太い木割り、高い天井、重々しい帯戸や大襖、釘隠しなど格式の多寡に武家屋敷を思わせる豪壮さです。この住宅は大名調の大柄な威厳と、落ち着いた京都風の品位を程よく織りなした名建築ということができます。江戸時代の農村社会史上においても、また地方の住宅史上からも貴重です。

所在地

南区味方216番地

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