建造物、絵画、彫刻

最終更新日:2015年4月14日

秋葉区の宝物

木造地蔵菩薩半跏像(もくぞうじぞうぼさつはんかぞう)(子育延命地蔵尊)(国指定重要文化財)

茂林寺に安置されているこの像は昔から「子育延命地蔵尊」として人々の信仰を集めてきました。その芸術性が高く評価され、昭和12(1937)年当時の国宝保存法により「木造地蔵菩薩半跏像」の名称で国宝に指定されました。
その後、昭和25(1950)年に国宝保存法が廃止され、文化財保護法が制定されると、国の重要文化財に指定されました。新潟市内の彫刻での重要文化財は、この像のみとなります。
そもそも茂林寺は江戸初期に新発田藩領の小須戸組最初の庄屋である坂井瀬兵衛吉次が創建したもの。地蔵尊はその孫の与次兵衛が大阪からもたらしました。
与次兵衛は当時、何度も大阪と小須戸を行き来していましたが、ある日、大阪の宿で不思議な夢を見たことから、宿の蔵の中にあったこの地蔵尊と出会い、譲り受けたのでした。その後、与次兵衛に男の子が授かったことから、この地蔵尊は子育延命地蔵尊としての信仰を集めるようになったのです。
その穏やかな表情と優雅な姿は、子を思う親たちの心を優しく受け止める慈愛にあふれています。
普段は、秘仏として公開しておりませんが、毎年5月7日・8日には、花まつりとして特別御開帳を行っています。

所在地:秋葉区小須戸3362

吉田家住宅(国登録文化財)

吉田家は大鹿村(現在、新潟市)の庄屋で、歴史地理学者吉田東伍(とうご)の養子先です。「琵琶湖周航の歌」の原曲である「ひつじぐさ」を作曲した吉田千秋(ちあき)は東伍の二男で、ここで生まれました。主屋の部分は明治16(1883)年、東伍を養子に迎えるために新築したものと伝えられています。木造平屋一部2階建で俗にアズマダチ風民家といわれるもので、切妻屋根を架けて平屋側に玄関を設けているのが特徴です。付属している座敷棟は東伍の没後大正13(1924)年頃、妻が帰郷するにあたって改築したものです。切妻造、瓦葺の平屋で端の小間に神壇をもうけています。土蔵は切妻造、瓦葺2階建の明治初期の建築で、水害を防ぐため1メートルほどの土盛の上に建ち、当地域の土蔵にみられる「水倉(みずくら)」と呼ばれるものです。
個人宅のため、普段は一般公開されていません。

所在地:秋葉区大鹿624

妙蓮寺(みょうれんじ)山門(市指定文化財)

この山門の様式は、三間三戸二重門と呼ばれ、文政期の建物としては装飾が控え目で、下から見上げた軒まわりの構成は、あたかも中世の力強さを感じさせるものになっています。皆さんも、どっしりした構えの山門を一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。

東島の妙蓮寺は日蓮の法孫日印が開祖で、鎌倉時代の正応元(1288)年3月28日に創建され、大変歴史のあるものです。今の山門は文政9(1826)年26世日感のとき、菅沢村(現在の五泉市)の伊藤与左衛門が願主となり、同村の工匠飯利辰左衛門によって建造されたものです。

所在地:秋葉区東島29-1

本間家懲震比鑑(ちょうしんひかん)(市指定文化財)

市之瀬の本間幸雄さん宅にある絵画「本間家懲震比鑑」(文政地震画帖)は、文政11(1828)年11月12日、現在の三条市を中心に発生した大地震の情景を、当時今町(現在の見附市)に住んでいた本間家の祖にあたる小泉其明が、自分の目で見、耳で聞いたことをそのまま写実的に描いたもので、本間家が代々にわたり収蔵、保存しています。

この懲震比鑑は、三条大地震の実態を知るとともに、地震学全般にとっても極めて貴重な資料です。なお、懲震比鑑とは、其明が「地震の懲らしめに慎む鑑」と言う意味で、後世の人々を戒めるために、画題にしたのではないかと言われています。

山論裁定絵図及び山論関係記録(市指定文化財)

元禄4(1691)年、護摩堂山(ごまどうやま)をめぐって起きた湯川村・田上村(現在、田上町)と橋田村・菅沢村(現在、五泉市)の境界紛争が江戸の幕府での訴訟で解決を見ると、つづいて翌年、元禄5(1692)年、金津村(現在、新潟市)と橋田村(現在、五泉市)との間で境界論争が起きました。このように、林野の境界・所有権・入会用益権をめぐる紛争を山論といい、係争者の主張とこれに対する幕府評定所の裁定を裏書きしたものが裁定(裁許)絵図です。元禄6(1693)年、幕府役人の実地検分が行われて同年12月12日江戸の評定所において裁決が出され、金津側の正当性が認められたかたちで一件は解決をみました。その裁定絵図と交渉の経過を示す関係記録には、当時の村民が命運をかけて争った様子がよくうかがえます。

普談寺(ふだんじ)絵馬一対(市指定文化財)

朝日の観音様で親しまれている普談寺に伝わる絵馬一対は、室町幕府の御用絵師である狩野(かのう)元信の作と言われています。この絵馬を見ますと、馬は手綱でつながれていて大変珍しいものとなっています。

これについては、奉納された絵馬に描かれた馬が、夜な夜な抜け出て田畑を荒らし回るため、地元の人達が大変困っていたところ、話を聞き付けた元信が馬に手綱を書き加えたところ、馬が抜け出さなくなったという言い伝えがあります。
新津にある絵馬の大部分は、江戸時代末期のものであることから、普談寺の絵馬は戦国時代の武人の手によって奉納されていたという事実も考え合わせると、当時のことを知るうえで大変貴重な文化財です。

所在地:秋葉区朝日2560

農協石造倉庫

昭和17(1942)年、日中戦争の長期化によって食糧需給が悪化し、米が国家管理下に置かれることになりました。(食糧管理法)このため、米を1か所に集積して管理したり、貯蔵したりする必要が出てきましたが、既存の東島倉庫では収容力が低く、建物も老朽化していることから、新しく朝日に石造倉庫が造られました。
この農協石造倉庫は、土台に荻野石を使用し、その建築様式は風や湿気に強く、当時としては珍しい建物であることから、各地から多くの人が視察に訪れたそうです。倉庫には5,300俵(規定量)の米を収容することができ、平成元年度まで現役として活躍しました。
現在は農機具などの保管倉庫となっています。

所在地:秋葉区朝日

金剛力士像(満願寺)

満願寺(まんがんじ)観音堂を護るため、仁王門の左右に阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)一対の金剛力士像が安置されています。仏法を守護するためのインド古来の武器、金剛杵(こんごうしょ)を持った武神、力のある武神であることから金剛力士といわれますが、一般には二つの神王という意味で二王(「仁王」と表記される)と呼ばれ親しまれています。表情はたくましく、「裳(も)すそ」の彫りも深いですが、躍動的というよりは静的威圧を感じさせる像です。仁王門は天和元(1681)年、石川与次右衛門が建立したものであるといわれています。なお、大正7(1918)年9月の阿賀野川改修により、宇枝橋にあったものが現在地に移されました。

所在地:秋葉区満願寺

金剛力士像(朝日)

朝日の普談寺観音堂登り口に一対の金剛力士像があります。寺に伝わる「大悲山殿堂寺往昔之記」によると、仁王門、両像とも元和4(1618)年ころに作られたそうです。大きく見開いた目や表情、姿態のバランスも他の金剛力士像とは違い、どこかユーモラスで庶民的です。明治時代より子供の健康祈願の意味をこめた「股くぐり」が行われ、地元の人びとをまもる仁王として親しまれています。

所在地:秋葉区朝日

金剛力士像(小口)

小口の観音堂を護っている金剛力士像は、延享(えんきょう)元(1744)年に作られました。口を大きく開いた阿形(あぎょう)、きつく結んだ吽形(うんぎょう)ともに勇壮そのもので、胸厚く筋骨隆々、目鼻立ち鋭く、実に堂々とした立派な姿をしています。作者は不明ですが、51戸の村民が厚い信仰を寄せていた観音様の守護として勧請(かんじょう)したもので、この年は珍しく豊作になったそうです。
左右の金剛力士像を納める仁王門は、その3年後の延享4(1747)年に建立され、鉄くぎなどは1本も使われていません。

所在地:秋葉区小口

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