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古津八幡山古墳について

最終更新日:2018年8月23日

古津八幡山古墳は直径60メートルの巨大な丸い形をした古墳(円墳)で、新潟県内の古墳としては最大級の大きさです。越後平野の王墓として、平野を一望でき、また平野から望むことのできる丘陵先端を選んで古墳は築かれました。
古津八幡山古墳のある丘陵は、古墳が築かれるより400年ほど前の弥生時代後期には戦いに備えた大規模なムラ(高地性環濠集落)がつくられていました。現在、弥生時代の竪穴住居や墓、環濠なども現地で復元しています。
1600年の時をこえてよみがえった新潟県内最大の円墳に訪れて、その大きさを体感し、当時の人々のくらしに思いをめぐらせてみてはいかがでしょうか。
このページでは古津八幡山古墳の造られた時代背景や発掘調査に基づいた復元整備などについて紹介します。

国史跡古津八幡山遺跡内にある県内最大の円墳「古津八幡山古墳」の復元整備工事が完了し、平成27年4月17日に公開が始まりました。

古津八幡山古墳の出現

古津八幡山遺跡では、約1,750年前の弥生時代終末期に高地性環濠集落が廃絶します。その約150年後、今からおよそ1,600年前に古津八幡山古墳は築かれました。古墳は丘陵の先端部に築かれており、平野からの眺めを意識してつくられたと考えられます。
古津八幡山古墳の復元整備工事を行うために、平成23(2011)年度から平成25(2013)年度に発掘調査を行いました。その結果、直径60メートルの巨大な円墳であること、古墳の斜面中ほどには幅約4から5メートルの平坦面(テラス)が巡ることなどが明らかになりました。
越後平野は新潟県内で古い時期の古墳(前期古墳)が集中している地域です。古津八幡山古墳は県内の古墳の中では最大級の大きさの古墳で、越後平野の各地域の豪族が共同して推し立てた王(有力な豪族)の墓であった可能性が考えられています。

古津八幡山古墳のつくり方

古墳の南西部には巨大な周濠が掘られています。周濠を掘って出た土をおもに利用して古墳を高く築いていることが分かりました。古墳の端から頂上までの高さは場所によって異なりますが、最大で6.8メートルです。
また、発掘調査によって古墳のつくり方が明らかになりました。もともと地形が高い部分を古墳の中心に決め、まず地形の低い北側の緩斜面を中心に土を盛って古墳の下段斜面とテラスをつくります。テラスは平らではなく、もともとの地形の影響を受けていた可能性が考えられます。続いて上段斜面をつくっていきます。まず中心部分に小丘を築くとともに、上段斜面にあたる外縁には土手状に盛土を行います。次に小丘と土手状盛土の間を土で埋めて平らにします。その後、再び外縁に土手状に盛土を行い、その中を土で埋めて平らにします。このような工程を繰り返すことで、古墳を高く築いていました。
古津八幡山古墳のつくり方には畿内の古墳と共通する面もあり、古墳に葬られた豪族が畿内の豪族と関係をもっていた可能性が推測されています。また、場所によって使用する土を細かく選んでおり、当時の高い土木技術の一端もうかがい知ることができました。

古津八幡山古墳の復元整備

古津八幡山古墳やその周辺は、第2次世界大戦前後の畑地造成の際の土地の切り盛りによって地形が大きく改変されていました。そのため、古墳の復元整備にあたり平成23(2011)年度から平成25(2013)年度に発掘調査を行い、その成果をもとに平成25(2013)・平成26(2014)年度と古墳の復元整備工事を行いました。
発掘調査では埋葬施設が確認されませんでした。一方で、古墳の頂上では一辺が10メートルほどの方形の溝が見つかりました。溝から出土した土器から、今から1100年ほど前の平安時代の溝であることがわかりました。この溝は、建物あるいは墓に伴うものと推測されますが、この溝をつくる際に古墳の頂上が削られ、埋葬施設が削平された可能性が考えられます。このほか、明治期にあった八幡宮や昭和51(1976)年の大気観測所の設置時にも頂上の一部は削平を受けています。また、地元の方の証言によれば、畑地造成時にも頂上が削られた可能性があります。
古墳のつくり方などをもとに復元される古墳築造時の頂上の標高は最低でも50メートルです。復元整備前の頂上の標高は約49メートルなので、少なくとも1メートルは削平されたことになります。復元整備工事は、後世に検証ができるように復元整備前の地形を極力削らない方針のもと行い、保護盛土の厚さを1メートルとしています。そのため、復元整備後の古墳頂上の標高は51メートルとなっています。また、テラスを平らに復元していないのは、もともとの地形の影響を受けて傾斜があったと判断した調査所見によります。

古津八幡山古墳をつくった豪族の屋敷

古津八幡山古墳の盛土の下や周辺では弥生時代後期(1世紀から3世紀)の竪穴住居が51軒見つかっています。古墳時代の建物はなく、その頃の集落は麓にあったと考えられます。麓では森田遺跡、舟戸遺跡、塩辛遺跡など古墳時代の集落が見つかっています。各遺跡の内容については不明な点が多いですが、遺跡の年代・立地などから古津八幡山古墳をつくった豪族の屋敷は麓の古津駅周辺にある舟戸遺跡が有力です。
舟戸遺跡は北東から南西方向に約800メートル、北西から南東方向に最も距離のあるところで約480メートルの範囲でひろがっています。発掘調査は平成5年に建設会社の社屋建設にともない、470平方メートルが調査されました。その結果、今から1600年ほど前の古墳時代中期の竪穴住居や掘立柱建物、杭列などが確認され、遺物も多く出土しました。
調査面積は少ないですが、竪穴住居や掘立柱建物の外部で確認された杭列からは、柵で建物群を囲っていた状況も推測されます。不明な点が多いですが、舟戸遺跡は南東約700メートルの丘陵上に臨むことのできる古津八幡山古墳をつくった豪族の屋敷である可能性が高いと考えられています。今後の調査・研究によって遺跡の内容を明らかにしていく予定です。

古津八幡山古墳の調査経過

古津八幡山古墳の高まりは、かつて中世の山城と考えられていました。磐越自動車道建設等による土取り計画に伴い昭和62(1987)年に確認調査(第1次調査)が行われ、この高まりが古墳である可能が指摘されました。また弥生時代の竪穴住居も見つかり、弥生時代の集落の存在も明らかになりました。
古津八幡山遺跡の発掘調査は、これまで19次にわたる調査が行われています。このうち、古津八幡山古墳が対象となった調査は、最初の第1次調査と、頂上にあった大気観測所の撤去に伴う第11次・第12次調査、古墳の復元整備のための第17次から第19次調査です。また、平成3(1991)年には、新潟大学考古学研究室の甘粕健教授を代表とする測量調査が行われ、詳細な測量図とともに古墳の復元案が提示されました。この測量図には第2次世界大戦前後の畑の畝の跡も詳細に記録されており、古墳がどのように改変を受けたのかを知ることのできる貴重な資料となっています。

古津八幡山古墳出現前夜 弥生時代

古津八幡山遺跡では、今からおよそ2000年前の弥生時代後期に、標高約50メートルの丘陵上の周囲に濠をめぐらした大規模なムラ(高地性環濠集落)が出現しました。環濠に囲まれる範囲は、南北400メートル、東西150メートルほどです。これまでの部分的な発掘調査で、弥生時代の竪穴住居51棟、方形周溝墓3基、前方後方形周溝墓1基などが見つかっています。方形周溝墓の木棺の中から出土した鹿の角で作られた柄の付いた鉄剣(鹿角装鉄剣)は、当時有力なムラ長がいたことを明示しています。
竪穴住居は、古津八幡山古墳の盛土の下でも確認され、古墳のある丘陵先端部まで弥生時代の集落が密に分布していたことが分かっています。竪穴住居からは炭化米も見つかっています。なお、古墳の北西から南東にかけてのびる環濠は園路として復元してあります。
古津八幡山遺跡の高地性環濠集落は、古津八幡山古墳が築かれるより400年ほど前の弥生時代後期に現れ、今から1750年ほど前の弥生時代の終わり頃に廃絶します。標高55メートルの最も高い場所に築かれた前方後方形周溝墓は遺跡の廃絶前後のものと推測されています。戦いに備える必要がなくなり集落は低地に降りたと考えられます。それを裏づけるように、古津八幡山遺跡の廃絶と前後する時期に麓では舟戸遺跡が新たに出現するなど、この時期に大きな社会の変化があったことが分かっています。

古津八幡山古墳以後

古津八幡山古墳が築かれてからおよそ200年後、今から1300年ほど前の奈良時代、古津八幡山遺跡のある丘陵北西麓の金津地区では製鉄(製錬)が盛んに行われていました。今から900年前の平安時代の終わり頃まで操業されていたと考えられます。当時、古津八幡山遺跡周辺は蒲原郡における手工業生産の一大基地でした。「金津」という地名はこの鉄づくりに由来すると考えられます。
古津八幡山古墳のある丘陵上でもその頃の活動の痕跡が確認されています。古墳頂上で見つかった一辺10メートルほどの方形の溝は、今から1100年ほど前の平安時代のものです。また、古墳の周濠が埋まる途中で掘られた同じ頃の穴も見つかっています。これらの具体的な性格は不明ですが、いずれにせよ丘陵上という立地から考えると特殊な性格のものと推測され、麓の製鉄集団によって残されたと考えられます。
明治6(1873)年から明治11(1878)年頃につくられたと考えられる個人所蔵の実測図には、古墳の頂上などに「八幡社境内」との記載があり、明治初め頃まで頂上周辺は八幡社境内として利用されていたと考えられます。明治40(1907)年、八幡宮は古津諏訪神社に合祀され、その後、取り壊されたようです。昭和17(1942)年には食糧難を背景に、畑地を確保する目的で古墳やその周辺で大規模な切り盛りが行われました。その後、昭和51(1976)年から平成13(2001)年まで古墳頂上には環境庁の大気観測所が設置されました。

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