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大正・昭和初期の花き園芸

最終更新日:2012年6月1日

戦前

 明治末期に開発された芍薬の台木に牡丹の穂を接いで増殖する方法は、増殖・栽培ともに容易であることから、小合地区を牡丹の一大産地にまで発展させることになりました。この頃牡丹、芍薬ともに品種改良が進み長尾次太郎氏、田中新左衛門氏らによって次々と新品種が作り出されました。大正5年(1916年)には長尾善作氏が芍薬の名花「花香殿」、江川啓作氏も同じく名花と言われた「黒王丸」を作り出しました。大正初期には牡丹、芍薬とともに流行の花として木瓜(放春花ボケ)・皐月(さつき)・ゼラニウムが流行の花となり、特にボケは全国的流行の先駆けとなりました。また、各地で温室ができはじめたのもこの頃です。

 大正10年(1921年)横浜植木(株)と牡丹苗の輸出契約を結び、その年の秋千数百本の牡丹苗をアメリカに輸出しました。
 大正12年(1923年)11月には久邇宮邸より牡丹、芍薬のご用命があり小田喜平太氏、長尾次太郎氏が植え込みのため宮邸を訪れています。新潟に黄色い牡丹が入ってきたのもこの頃でした。

 昭和2年(1927年)には新潟県花卉球根協会が設置され、翌年牡丹原種圃場が小田喜平太氏の農場に設置されました。
 昭和3年(1927年)5月1日から6日まで東京三越本店園芸部において新潟牡丹の宣伝会が開催され、出品数は500点ほど有りましたが、その半数以上が小合の牡丹でした。

 昭和5年にロンドンで開催された軍縮会議の際に小田喜平太氏は若槻礼次郎全権を通じてロンドン公演に牡丹苗を寄贈し好評を博しました。
 長尾次太郎氏は牡丹・芍薬の品種改良に全力を注ぎ越後牡丹の半数を造り出しました。

チューリップの始まり

 新潟県でのチューリップの栽培は明治37年(1904年)、三島郡来迎寺村の水島義郎氏が東京妙華園から球根を導入したことに始まります。

 しかし、水島氏は学校などの公共施設に球根を寄付するなど観賞用として広めましたが、球根栽培を産業化することは考えていませんでした。

 小田喜平太氏がチューリップ栽培を始めたきっかけは2通りの説があります

水島氏が進めた説

大正7年(1917年)当時中蒲原郡農会技術員であった水島氏は自らのチューリップの知識を小合村の小田喜平太氏に伝え、これに興味をもった小田氏は球根を購入し栽培を試してみました。

(小田喜平太氏)自ら始めた説

明治37年(これは同じ)頃から一部観賞用として植えられていたが、これが有望な産業の一つになるとは誰も考えていませんでした。これより先に、小田喜平太氏は千葉県からチューリップの球根数百球を購入し試験的に栽培をしていました。

 この栽培結果はきわめて良好でしたが小田氏はチューリップの将来性(本当にこれは売れるんだろうか?と)に半信半疑でした(この時やめていればその後の繁栄はなかったのでしょう)。中蒲原郡農林技手(現県庁職員)であった小山重氏は小田氏を訪れ、実際に球根の状況を調査し、その生育が非常に良く、世界的生産地であるオランダに気候風土やチューリップ栽培に必要な条件がよく似ており、将来きわめて有望であると説いたそうです。

 小山氏の恩師、千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)の林修己教授は、冬期間の適当な降水量、冷え込みの少ない気象、信濃川の河川沖積の砂壌土が球根栽培に最適であることを強調し、小山氏が小田氏の指導にあたりました。

 大正7年(1918年)、これまでの盛況ぶりを忘れることができずに栽培をしていた紫金牛が、投機的で安定性がなく、産業として将来性にも乏しいと判断し、「チューリップこそ地域の物産となり、繁栄を図る道である」と決心し、当時数万円に値した紫金牛をすべて土中に埋め、翌年(大正8年)には数万球のチューリップ球根をオランダから購入して本格的に栽培に取り組みました。これが一番最初の商業栽培であると考えられています。

 小田氏は牡丹に加えチューリップも振興しようと周りの人に働きかけましたが、当時チューリップ自体園芸業者にはなじみがうすく、「一時的な流行」と見る人も多くその普及には大きな苦労がありました。

 時には球根界の権威、林修己教授を招き講演会を開くなど球根の知識の普及にも努力しました。
 その努力の結果、将来有望であると解ると急速に栽培者も増加し、翌9年9月には小田喜平太氏、加藤壮平氏、長尾次太郎氏の主唱で小合園芸組合を結成しました。これを機に郡内(中蒲原郡)の有志が続々と大規模栽培を志し、発展の機運は高まっていき、大正10年5月には新津町の郡会議事堂において牡丹・芍薬・チューリップ・ヒヤシンスの切り花、鉢花を中心とした品評会を開くまで成長しました。また、この年鷲巻村(現白根市)の真柄虎雄氏はチューリップ球根が商売に向いているとして、小田氏から25,000球を購入し植え付けを行っています。翌大正11年には中蒲原郡花卉球根組合(より広域な組合)が設置されこの年の4月25日には県知事太田正弘氏が園芸視察のため来村し、以降歴代の知事がことごとく視察されました。

 小梅小学校では花卉品評会が開催されるなど大きな進展がありました。
 その後大正10年(1921年)、又は大正13年(1924年)にオランダから大量にチューリップの球根を輸入しているものの、統一した記述がなく大量に輸入した事は事実として、いつ、だれがの部分が曖昧です(以下、文献からの抜粋)。

新津市史:資料編第六巻編

大正13年、喜平太はオランダから一挙に14万球を購入して…

新津市史:金津、小合・新関地区編

大正10年、オランダよりチューリップの新品種10万球を輸入した(”誰”がの記述は無し)

新津市商工名鑑1959

大正11年…(中略)…その後、小田氏はオランダよりチューリップの新品種10万球を輸入した

 大正13年、中蒲原球根組合は「チュリップ営業目録」(カタログ)を発行し、販売においては国内だけでなく、アメリカやメキシコにまで輸出されるようになりました。また、これらに対応するためこの年、新潟県では、オランダから有望な新品種を輸入・増殖し、栽培農家に配布する構想で「花卉球根原種栽培場」を小田喜平太氏の農場に設置し、大正15年から配布を開始しました。

 大正14年には中蒲原郡全体で7haを越す栽培面積となり、小合村だけで3haに達し、大正末期には中蒲原郡の河川沖積畑や砂丘畑に広くチューリップの栽培が行われるようになりました。

 小須戸の園芸業者もいち早くチューリップの栽培を導入し、大正12、13年頃から鵜出古木の高橋万之助氏らが、「カイザースクロン」「クライシモ」「バーミリオン」等の早咲き品種を重点的に栽培しました。

 以上のように大正13年から大正15年にかけては毎年躍進に次ぐ躍進でした

 とかく儲かる農産物となると、自分だけのものにしてしまい門外不出、教えてもごく親しい仲間にしか教えないと言うことも多かったが、小田喜平太氏は積極的に生産技術を公開し仲間を次々に増やしていきました。

 これには直接指導にあたった小山重氏、上司で中蒲原郡長の片山三男三氏、県農務課産業主事宇佐見周紫氏らの本格的指導の影響が大きいと考えられます。

チューリップ盛衰

 昭和2年(1927年)2月には新潟県花卉球根協会が設立され、小田喜平太氏が会長に就任し、県庁農務課内に事務局を設置、広く門戸を開放し業界の発展を計ることになりました(詳しくは後述)。

 アメリカなどの海外へ積極的に輸出するための協議会を開催するなど大きく活動を開始し、昭和4年5月には白根町(現新潟市白根地区)で県内の花卉球根共進会が開催され、更に同年海外へ1万球の輸出の計画を発表するなど一般的な不景気をよそに意気は軒昂たるものがあった。

 昭和5年4月には新潟市で全国花卉園芸業者大会や花卉園芸共進会が開催され、小合地区もその見学コースの選ばれました。

 昭和5年、6年は昭和恐慌(※日本経済)の不況のまっただ中にあり、県内の稲作も不況のどん底にありましたが、チューリップの球根においては米の数十倍の収入がありました。

 昭和9年(1934年)には全国的な米の大凶作のなか県農事試験場園芸部の新津移転※後述を記念して全国園芸共進会(新潟県農会主催)が新津市で開催され、第一会場の新津尋常高等小学校では野菜・果実・花き・盆栽、第二会場の県農事試験場園芸部では種苗・園芸加工品・参考品の出品があり、不作の中で果実642点、野菜1007点、その他2610点の出品があり、観覧者数も9万人を越す大盛況でした。このとき配布された資料『園芸要覧』には昭和8年(1933年)の小合村の花き・苗木の総販売額は県全体の3分の1強、20万6425円と記載されていました。

 昭和10年(1935年)にはチューリップの作付け面積は5町3反に達し、中国満州方面へ輸出していた各種球根は年々その量を増していきこのとしは10万球を越えるほどになりました(いつごろ輸出し始めたのかは不明)。

 昭和3年の中蒲原郡の米の反収(1反あたりの収穫量)は、1.82石(1石150キロ)、粗収入で55円87銭であったのに対し、チューリップは反当たりの粗収入で1280円35銭と20倍以上という考えられないような数字でした。

 米の反収がもっとも下落した昭和6年の反収は1.71石、粗収入で31円40銭となり、チューリップも例外に漏れず価格は下落したものの反当たり粗収入で891円42銭と米と比較して28倍もの高値でした。

新潟県花卉球根組合の事業内容

  • チューリップ・ヒヤシンスなど球根類、牡丹の県原種圃で生産する原種の分譲
  • 会員生産品の販売・あっ旋
  • 優良品種決定のための調査研究
  • 花き優良品種普及のための見本園の設置
  • 会員の作出した優良品種の登録・奨励・保護
  • 優良会員の表彰
  • 販路の拡張宣伝・共進会・即売会の開催
  • 生産品の検査と共同販売に実行

※大正9年(1920年)以降、昭和5年(1930年)の昭和恐慌まで、日本の経済は慢性的に不況となります。

 昭和恐慌期の救世主となったチューリップの球根栽培は、その後も順調に栽培面積を増やしていき昭和13年(1938年)には75.5ha(おそらく県全体)にもなりました。反当たりの粗収入金額は昭和3年に比較すれば5分の1の262円27銭と落ち込んでしまいましたが、それでも米の3倍以上の収入でした。

 しかし日中戦争(※昭和12年(1937年)の盧溝橋事件を発端にした日本と中国の戦争→その後第二次世界大戦へと)が長期にわたり食料増産の声が大きくなり、昭和14年以降は栽培面積は下降の一途をたどることになりました。しかし、同年9月に勃発した第二次欧州大戦によってアメリカはオランダからの輸入が不可能となり、一時的にアメリカへの輸出が増え反当たりの粗収入も528円88銭となり前年の倍となり好景気で沸きました。

 ところが昭和16年(1941年)になると、今度は日米間の政治情勢が悪化、7月には突然、対日資産凍結令が出され、輸出する事ができなくなり、大きな打撃を受けることになります。

 昭和16年(1941年)、農地作付統制規則が公布され、チューリップどころではなくなり、同年、太平洋戦争(1941(昭和16)年12月8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、3年6箇月に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発)開戦します。

 昭和18年(1943)には食糧増産応急対策要綱が制定され、チューリップの球根は食用やでんぷんの加工用になりました。

 統制令により制限された小合村の球根作付面積は1町6反にまで減少し、同業組合は団体統合令によって解散させられ、小合の球根の経済栽培(商用栽培)は終止符を打つことになりました。

 廃棄命令がだされましたが、例外的にチューリップ品種保存圃には130品種の維持(保存)が認められました。また、なかにはこっそりと草原に栽培して品種の維持を計る人もいました。このような努力(戦時中は非国民的かと)もあり、戦後の復興につながることになります。

昭和16年10月16日 農地作付統制規則公布

昭和18年6月4日 閣議決定 食糧増産応急対策要綱

昭和17年 農業生産統制令

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秋葉区役所 産業振興課
〒956-8601 新潟市秋葉区程島2009
電話:0250-25-5689 FAX:0250-24-5888

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