潟と人との関わり

最終更新日:2012年6月1日

もくじ

佐潟の歴史、過去~江戸

 越後平野の海岸線には、岩船港から角田山の山麓まで70キロメートルにわたる新潟砂丘が連なっています。新潟砂丘は大きく3つに分けられ、縄文時代前期に新砂丘1が、その後弥生時代にかけて新砂丘2が、最後に古墳時代に新砂丘3が形成されました。新砂丘3が形成された1300年ほど前には、新砂丘の1と2または1と3の間のくぼ地に湧水などが涵養し、現在の佐潟に近い形ができていたと考えられており、砂丘の中に湿地の生態系が形成されました。
 縄文から弥生時代以降になると、狩猟の場として人々に恵みを与えていたようで、狩猟具の石器が出土しています。また、砂丘の上には平安時代の遺跡が潟を取り囲むように点在しており、潟の周囲は水辺と深く関わりのある生活の場であったと考えられます。中には土錘(どすい)と呼ばれる網の重りが大量に見つかっている遺跡もあり、すでに当時から佐潟が漁場として利用されていたようです。
 江戸時代には、高田城主松平忠輝が佐潟での鳥猟に鳥役(上納金)を命じたという記録もあり、これが白鳥を保護する役割を果たしました。また、与板藩士三輪長泰による『改正越後国全図』(1802年(享和2年))の付録では、坂田潟(佐潟)について「赤塚駅の北にありて小潟なり。雁鴨群遊すること国中第一なり。又鮒の名産なり。」と評価しており、当時から水鳥が多く、淡水魚の漁場であったことをうかがわせています。このため、佐潟の地元である赤塚の地は、北陸道における在郷町として栄えたようです。

佐潟の歴史、明治~現在

 その後、明治時代には、漁業権の申請や蓮根組合の存在の記録があり、当時の赤塚村の財政に佐潟の恵みが大きく関わっていました。
 赤塚地域では、農業をはじめとしたすべての用水に佐潟の水を利用していました。潟の湧水を出やすくするため、夏の水枯れ時には潟にたまったドロや枯れた水草を取り除く一斉清掃が地域住民総出で行われていました。これが「潟普請」と称されるものです。潟普請は用水の確保ばかりではなく、放流した稚魚の成長など、漁業にとっても必要なことでした。用水管理の面では、赤塚で水回りの管理人が決められ、潟の水門の調整や用排水の見回りなどが行われていました。
 また、佐潟の岸辺では、明治時代以前から稲作が行われており、終戦直後もさらなる開墾が進められ、田んぼの風景が広がっていました。春になると、耕作者が湖底から掻き揚げてきたドロ(植物遺骸)を舟で運び、有機肥料として田んぼに入れていました。
 このように、1960年代(昭和40年頃)までは農業用水池や淡水魚の良好な漁場として、また岸辺は水田として人々の生活にとってなくてはならないものであり、地域住民の直接的な関わりがありました。そのため、越後平野の多くの湖沼が姿を消していく中、佐潟は地域の人々によって、その生態系を維持した水辺が残されてきたのです。
 1960年代の高度経済成長期から社会環境が変化し、潟の恩恵を必ずしも必要としない生活様式が地域に広がりました。周辺砂丘の松林が畑に変わり、砂丘自体の整理減少もありました。また、1970年(昭和45年)頃からの減反政策により岸辺の水田は減少し、1982年(昭和57年)頃からは新潟市による佐潟公園の整備事業も始まり、これまでとは違った佐潟の活用展開が見られるようになりました。その結果、昭和から平成にかけて地域住民による潟の利用は、漁猟とわずかな農業用水の利用ぐらいとなり、水田だった岸辺もヨシ原へと変わり、水質の悪化(富栄養化)も進みました。
 1996年(平成8年)に佐潟がラムサール条約に登録され、佐潟の存在や価値が改めて注目されたことをきっかけとし、例えば、地域住民は「佐潟クリーンアップ活動」を立ち上げました。これは、底泥の潟外排出や水生植物の枯死体回収など、かつての潟普請を現代版として復興させる取り組みです。また、新潟市も水質改善と湿地環境の保全を意識した取り組みを地域との協働で実施するなど、潟と人との関わりが見直されています。

佐潟の航空写真

昭和22年
昭和22年(米軍航空写真)

平成20年
平成20年(新潟市撮影)

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