新潟市の歴史

最終更新日:2022年1月8日

はじめに

 新潟市は、平成17年に近隣13市町村と合併し、人口約81万人、面積約726平方キロメートルになりました。さらに、平成19年4月に本州日本海側で最初の政令指定都市となりました。日本海側の中央に位置し、信濃川・阿賀野川が海に注ぐ市域の歴史を紹介します。

1 後期旧石器時代から縄文時代

 この時代に、新潟市域で人々の営みが始まり、市域の大半を占める越後平野の原形ができます。
 人々の営みの最初の舞台は、市域の南に連なる新津丘陵です。新津丘陵には、狩猟に使われた約2万年前ころからの石器が点々と残されています。市域の西に連なる角田山麓からは、1万4000年前前後の石器が発見されています。
 越後平野は、縄文時代に原形ができました。縄文時代の温暖化に伴う海水面の上昇によって海に覆われた旧平野に、信濃川や阿賀野川などが運ぶ大量の土砂が堆積し、やがて低くて平らな平野となったのが越後平野です。平野の前面には砂丘が形成され、その内側は潟湖が多く残る状態でした。約6000年前の縄文時代前期には、北区・江南区・西蒲区の砂丘に集落ができるようになり、人々の生活の場は平野部にも広がっていきます。

2 弥生時代から古墳時代

 この時代に、市域は北進する西日本の文化と、東北地方の文化が接する地域になります。砂丘は、古墳時代に現在の海岸砂丘とほぼ同じ場所に広がり、市域は越後平野のほぼ唯一の河口部となります。
 弥生時代後期、新津丘陵や角田山麓には高地性集落が点々と作られます。「倭国大乱」の政治的緊張によるといわれます。このうち、新津丘陵の古津八幡山遺跡は、日本海側最北の大規模な高地性集落であるほか、北陸地方と東北地方南部の土器文化が共存することで知られます。
 古墳時代前期になるとヤマト政権の影響力が強まり、新津丘陵には古津八幡山古墳、角田山麓周辺には山谷古墳・菖蒲塚古墳などが築造されます。また、平野の中にも緒立八幡神社古墳が築造されます。この古墳の主は、信濃川河口周辺の水上交通を掌握した権力者と考えられています。

 この後、市域周辺には古墳が築造されなくなりますが、6世紀半ばには畿内政権によって「高志深江」(こしのふかえ)の国造(地方官)が任命されます。さらに、大化3(647)年には、畿内政権による北方支配の拠点、渟足柵(ぬたりのき)が造られます。渟足柵の地は、阿賀野川右岸の河口部(後の通船川河口)近くと考えられています。

3 古代

 市域が国の地方制度に組み込まれ、信濃川の河口に蒲原津という国津が設けられた時代です。

 8世紀前半に国-郡-郷を単位とする地方制度が整うと、阿賀野川を境に北が越後国沼垂郡、南が越後国蒲原郡になります。またほぼ同時期に、新津丘陵に鉄・須恵器を生産する遺跡、信濃川左岸の的場にサケを漁獲加工する遺跡が成立し、海岸の砂丘地帯には塩を生産する遺跡ができます。鉄・須恵器の生産は、郡内の自給力を高めるためでした。サケは、10世紀までに、越後国が税として都(朝廷)に献納する特別な産品になります。
 10世紀前半の郷には、沼垂郡に沼垂郷・賀地郷、蒲原郡に桜井郷・青海郷などがありました。また、越後国の国津は、信濃川河口の蒲原津湊と定められていました。当時、越後国の国府は頸城郡(上越市)にありましたが、国府から遠く離れた地に国津が置かれたことは、広大な流域を持つ信濃川河口の重要性を物語っています。
 なお、古代末期には「沼垂郡」の郡名が使われなくなり、その郡域は蒲原郡に含まれてしまいます。

4 中世

 在地の武士(在地領主)が実権を握り、角田山麓や新津丘陵などに山城・館が造られる時代です。加地氏・金津氏・新津氏など在地名を名のる武士が現れ、山麓に近い平野の開発が進みます。

 平安時代の末期以降、阿賀野川以北に豊田荘・白河荘・加地荘、新津丘陵周辺に金津保・青海荘、弥彦や角田山周辺に弥彦荘・吉田保などの荘園・保(国衙領)ができました。荘園の開発には城氏をはじめとする越後の武士が関わったといわれています。
 12世紀末、鎌倉幕府が成立すると、越後国の荘園・保には幕府の配下の武士が地頭として移住してきます。武士たちによって加地荘や金津保など市域周辺の開発が進められましたが、芦沼が広がる下流域は、ほとんど未開発でした。
 14世紀前半、南北朝の動乱が起こると、武士たちは阿賀野川以北が北朝方、以南が南朝方に別れて戦います。北朝方の中心は加地荘の加地氏、南朝方の中心は天神山城(西蒲区)の小国氏でした。このとき、蒲原津の争奪戦が4回も行われたのは、物資・兵員を運ぶためには舟運の拠点を押さえる必要があったためです。

 新潟の地名が記録に現れるのは、戦国時代の永正17(1520)年です。信濃川河口右岸の蒲原津と、阿賀野川河口(現、通船川河口)右岸の沼垂湊に、信濃川河口左岸の新潟津が加わり、合わせて「三か津」と呼ばれました。蒲原津は、この後数十年のうちに港の活気を失い、新潟津が信濃川・阿賀野川河口を代表する港になります。
 天正9(1581)年、新発田城の新発田氏が新潟津を占拠し、春日山城(上越市)の上杉氏に対抗します。新潟町を前線基地とする新発田方に対し、上杉方は木場(西区)に城を造り、攻防戦が繰り広げられます。上杉方は、ようやく14年に新潟・沼垂町を制圧しますが、その勝因は、新発田方に組していた新潟衆11人・沼垂衆5人が、離反して上杉方を誘導したためともいわれます。新潟津・沼垂湊を制圧した上杉方は、翌年に新発田氏を滅ぼして越後を統一します。

5 近世

 兵農分離が行われ、村役人・町役人を中心にして村・町が運営される時代です。信濃川・阿賀野川下流域の開発が進み、この時代に、明治時代以降に続く村・町のほとんどができます。

 慶長3(1598)年、豊臣秀吉の命で上杉氏は家臣と共に会津(福島県)に移り、代わって春日山城・新発田城・村上城に新たな大名が入ります。その後、領地の組み換えなどが度々行われ、市域は中ノ口川以東の大半が新発田領、以西の大半が長岡領となったほか、村上領・幕領・旗本領などもできます。
 信濃川・阿賀野川下流域の低地の開発は、近世初期になって急速に進みます。新発田領の中之口組では、慶長3年に石高約1600石であったのが、新田開発によって寛文4(1664)年には約3800石になり、多くの村が生まれます。集落が連なったり、点在したりする穀倉平野の光景ができるのはこの頃からです。村落の増加により、宝永年間(1704~11)までに、新津・白根・亀田・小須戸の在郷町が成立し、六斎市が開かれます。市域の在郷町は、以後の成立も含め、多くが舟運の要所に位置します。

 近世初期、新潟町は長岡領、沼垂町は新発田領の港町となり、両港は信濃川・阿賀野川水系に領分を持つ諸藩や幕領の回米積み出しにも使われました。しかし、沼垂町は河口の変化によって、寛永17(1640)年~貞享元(1684)年の間に4回も移転し、発展する機会を失います。新潟町は、移転が明暦元(1655)年の1回で、移転後に西回り航路が整備されたこともあり、元禄年間(1688~04)ごろには日本海側最大の港町となります。

 近世中期以降、大規模な土木工事を伴う新田開発が行われます。享保15(1730)年に開削された松ヶ崎堀割は、紫雲寺潟(塩津潟ともいう、新発田市)の干拓が目的でした。この堀割は、翌年の増水で破壊されて阿賀野川の本流となり、旧流路は通船川と呼ばれるようになります。文政3(1820)年に開削された内野新川は、大潟・田潟・鎧潟周辺の排水と新田開発が目的でした。在郷町は、宝暦年間(1751~64)までに葛塚・大野・新飯田・漆山・曽根・巻などが成立します。

近世の在郷町
近世の在郷町(図中の○印が在郷町)

 新潟町では、明和5(1768)年、長岡藩が課した御用金が原因で一揆が起こり、町民の支持を得た一揆側が、約2か月間にわたって町政を掌握する事件が起きます。また、天保7(1836)年と11年の2度にわたり、幕府が新潟町の唐物密輸を摘発します。幕府は密輸防止と、異国船からの海防を理由に、天保14年、新潟町を幕府領とし、新潟奉行を置きます。

盆踊り

 幕末の安政5(1858)年、新潟港は修好通商条約で開港五港の一つに挙げられます。日本海側最大の港町であること、幕府領であることなどが理由でした。しかし、開港が実現しないまま幕府は倒れ、慶応4(1868・9月明治改元)年1月、戊辰戦争が始まります。7月、新政府軍は、奥羽越列藩同盟の補給基地になっていた新潟町を制圧し、新潟民政局を設置して直轄地にします。

6 近代

 開港によって新しい時代の扉を開いた新潟市が、鉄道の開通・港湾の整備・放水路の開削などによって、近代的な都市へ変貌を遂げようとする営みを続けた時代です。

 明治元年11月19日(西暦1869年1月1日)、新政府は新潟を開港します。開港場を重視する政府は、3年に水原県を新潟県と改め、新潟町を県庁所在地にします。新潟県の範囲は、翌4年の廃藩置県などを経て、19年に現在の県域になります。また、新潟県は12年に郡区町村編制法を実施して、蒲原郡を4郡に分け、市域の町村を北蒲原郡役所(新発田町)、中蒲原郡役所(新津村)、西蒲原郡役所(巻村)の管轄とし、新潟町を県内唯一の区(新潟区)とします。さらに22年には市制・町村制を実施して、市域の1区・600町村余りを1市・123町村に統合し、従来の町村は大字という区域単位になります。
 開港場・県都となった新潟町には、開化政策が積極的に進められ、10年までに新潟郵便役所・第四国立銀行・新潟病院・師範学校・川汽船会社・米商会所などが開設されます。第四国立銀行の創立には新潟町の有力者とともに、水原の市島家、田上の田巻家、加治川の白勢家らが参加するなど、新潟町は蒲原郡の地主たちが資本投下する地となります。また、新潟港は、樺太(サハリン)やカムチャッカ半島などの北洋漁業の、国内有数の基地になります。

 市域の大半は、米どころとして知られる稲作地帯でした。しかし、多くは湿田・沼田で、加えて洪水に度々襲われる不安定な稲作でした。明治2(1869)年、1万人以上といわれる亀田郷の農民が関屋に結集し、自力で信濃川の分水路を開削しようとする事件が起きます。政府は翌3年に大河津分水を本格着工しますが、5年に、過重な地元負担に反対する1万数千人の一揆が起きます。8年、政府は工事を中止し、抜本的な治水対策は見送られてしまいます。
 明治中期、水田の排水のため、全国に先駆けて24年に北区の新鼻新田・大月で、翌年には西蒲区の堀山新田で蒸気機関による動力排水機場が設置されます。26年以降、次々と水利組合が設立され、組合営による動力排水機場設置が進みます。信濃川下流域では、明治29年の大水害をきっかけに抜本的な信濃川治水工事が始まり、大河津分水が40年に再着工され、大正11(1922)年に通水すると、洪水の激減と動力排水機の普及により湿田稲作がほぼ安定します。また、阿賀野川下流域では、新井郷川開削などを含む阿賀野川改修工事が大正4年に着工され、昭和8(1933)年に完成します。

 明治30(1897)年、信越線沼垂駅が開業します。大正初期には羽越線・磐越西線・越後線が開通し、舟運に代わって鉄道輸送が重要になります。明治30年代には、新津丘陵に広がる新津油田で機械掘削による採油が本格化し、産油量が国内屈指となります。大油田の北半を占め、鉄道網が接続する新津町は、「石油の町」「鉄道の町」といわれるようになります。

 豊富な県内産油を背景に、新潟市は製油所・硫酸工場など石油産業が発達した都市になり、工場は信濃川対岸の沼垂町に広がります。

 大正3(1914)年、新潟市と沼垂町は合併し、沼垂側では近代港湾の築港が始まります。この工事は大正15(1926・12月昭和改元)年に完成し、新潟港は、大型汽船が埠頭に着岸し、貨物列車が乗り入れる港になります。さらに、昭和6(1931)年に上越線が開通し、翌7年に「満州国」が建国されると、新潟港は、首都圏と日本海対岸とを結ぶ最短路に位置する港湾になります。
 新潟港は満州開拓民の出発港になるなど日本の対岸進出の拠点港となり、新潟市周辺には国内から多くの工場が進出します。昭和16年、戦争が太平洋戦争に拡大すると港湾荷役や工場の軍需生産を維持するため、近隣市町村から多くの人が動員されます。また、新潟市は、工場地帯の広がりで関係の深まった大形・石山・鳥屋野村と合併します。戦争末期、新潟港はアメリカ軍の機雷封鎖を受けて機能を失い、20年8月の終戦を迎えます。市域における昭和6年の満州事変以後の戦没者は、約1万4200人に上りました。

吉田初三郎「新潟市鳥瞰図」

7 現代

 大排水機場の建設と土地改良によって低湿地を克服した新潟市が、災害や公害にひるむことなく、都市化・工業化・国際化を進めている時代です。

 昭和20(1945)年9月、アメリカ軍が新潟市に進駐し、市公会堂(現りゅーとぴあの場所)に師団司令部(新潟軍政部)を設置して、市域の間接統治が始まります。新潟飛行場はアメリカ軍に接収され、軍需生産に関わっていた多くの工場が操業を停止・縮小します。新潟港は、触雷事故や水深不足のため、寂れます。

 農村部では、昭和22年から、不在地主の農地を小作農家に売り渡す、農地改革が始まります。農村は、農地改革が終了する25年までに自作農家中心の農村に変わります。地主・大農家を中心とする水利組合に代わり、自作農家による土地改良区が設立されます。
 昭和23年、食糧増産のため戦時下に着工されていた、栗ノ木排水機場が運転を開始します。26年に新川右岸排水機場、29年には新井郷川排水機場など、国・県営の大排水機場が次々と運転を開始します。これに合せて耕地整理(土地改良)が、耕地整理組合・土地改良区によって実施され、30年ごろに市域のほとんどで完了します。市域の水田は、まっすぐな道路、用・排水路に区画された乾田となり、舟農業から、牛馬車・耕運機による農業に変わります。

 新潟市は、昭和25年に起きた朝鮮戦争による特需で工場生産が上向きます。講和条約が発効して日本が主権を回復した27年には、新潟港の安全宣言が出され、港の活気が戻ります。復興期から30年代の高度経済成長期にかけて、新潟市の工業発展を支えたのは、天然ガスを原料とするガス化学工業でした。33年には日本瓦斯化学工業が国内最大のメタノール工場になります。石油産業は、産油量が減少した県内産に代わり、外油が原料になります。

 急激な工業化・過密化は弊害も引き起こします。天然ガス採取に伴う地下水の汲み上げによって地盤沈下が進行し、昭和30年代にはゼロメートル地帯が広がって、海岸決壊や浸水騒ぎが起きます。また、40年代には、騒音公害や煤塵のほか、新潟水俣病の発生が明らかになり、公害が深刻化します。39年、新潟国体開催の直後、マグニチュード7.5の新潟地震が市域を襲い、被害が新潟市に集中します。地震以降、中小工場の集団移転や、郊外住宅の急増など、市街地から郊外への拡散が顕著になります。

 昭和28年から36年にかけて、政府は、市町村合併を全国的に進めます。この合併で、28年に2市48町村であった市域は、36年に3市12市町村になります。また、この合併では新潟市が11町村を合併して拠点性を高め、新津市・白根市・豊栄町・巻町などが比較的多くの町村と新設合併します。

 食糧増産は、昭和40年代、越後平野の最後の大潟湖であった鎧潟の全部と、福島潟の約半分を農地にする、巨大干拓をもたらします。しかし、40年代半ばには米余りになり、生産調整(減反)が始まります。稲作は、食味と省力化が重視されるようになり、市域では50年代に田植えも機械化されます。また、蔬菜・花卉・果樹の産地化が進められ、新津・小須戸のアザレア、黒埼の茶豆、白根の洋ナシなどは全国銘柄になります。

 新潟港(新潟西港)を中心とする新潟の工場地帯も、大きく変化します。昭和38(1963)年、拠点開発を図る政府は、新潟地区を新産業都市に選定し、西港の北約15キロメートルに工業港(新潟東港)と工場地帯の建設を進めます。東港は44年に開港し、その後、国家石油備蓄基地・国際海上コンテナ埠頭などが整備され、日本海側の国際貿易の中枢港になります。西港周辺に展開していた工場は、多くが東港工業地帯に移ります。新潟西港はフェリー埠頭が整備された商業港となり、工場・倉庫跡地は商業・住宅地に再開発されます。

 昭和48(1973)年、定期航空路・新潟-ハバロフスク線が開設され、新潟空港は国際空港になります。国際線は、その後ソウル線・ハルビン線などが開設されます。53年に北陸自動車道・新潟-長岡間が開通し、平成9年までに関越自動車道・北陸自動車道・磐越自動車道が全線開通します。また、昭和57年には上越新幹線・新潟-大宮間が開通し、平成3年に東京駅乗り入れをします。新潟市は日本海側の高速交通拠点となり、平成14年に日本・韓国で開催されたワールドカップサッカー大会では、新潟スタジアム(ビッグスワン)が試合会場になります。

 市域内の交通は鉄道・バスが中心でしたが、昭和40年代半ば以降、自家用車による交通が急増します。市町村の中心市街地を迂回する道路や、広域バイパス・広域農道が次々と作られ、通勤・通学、買い物、医療など生活範囲が急速に広がります。平成以降は、中心市街地から離れた郊外に、広い駐車場を備えた大型商業施設が生まれ、生活圏はさらに多様になります。一方、中ノ口川沿いの新潟交通電車線は、平成11年に、東関屋-月潟間の運行が廃止されて姿を消します。
 平成17年3月、新潟市は新津市・白根市・豊栄市・小須戸町・横越町・亀田町・岩室村・西川町・味方村・潟東村・月潟村・中之口村の12市町村と合併し、さらに10月には巻町と合併しました。

 平成19年4月1日、新潟市は本州日本海側で初めて政令指定都市に移行し、新たな都市づくりをはじめています。

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