遺跡が語る新潟市の歴史(飛鳥・奈良・平安時代)

最終更新日:2020年6月6日

飛鳥時代・奈良時代・平安時代

律令体制が成立し、地方を支配するために各地に役所が置かれました。
ムラが編成され、役所による土器や製鉄・製塩などの生産管理も行われました。
一方で貴族や有力寺社は地方の有力者と協力し荘園が増加。律令政治は崩壊していきます。

渟足柵の時代

日本書紀には647年に越後に渟足柵(ぬたりのき)が作られたことが記されています。その場所は諸説ありますが、新潟市内にあったという説が有力です。
渟足柵と同時期の遺跡に大沢谷内(おおさわやち)遺跡(秋葉区)があります。ここでは建物跡や井戸のほか、水辺には祭祀に使った木製品が多数出土しています。中には九九を書いた木簡もありました。


大沢谷内遺跡出土土器

律令政治と地方

的場遺跡・緒立遺跡(西区)では、水辺に並んだ掘立柱建物群と3,000点を超える漁具、「杉人鮭」「をの尓へ」と書かれた木簡が出土しました。またサイコロや人面墨書土器といった律令祭祀の道具や役人が身につける腰帯金具(ようたいかなぐ)もみつかったことから、都へ税金として送る鮭を加工していた公営の水産加工施設と考えられます。


緒立遺跡出土土器

ムラの暮らし

貴族が政治の実権を握り、律令制による支配が弱まる平安時代には、地方の有力者の力が増大しました。荘園が増加する9世紀後半には、市内でも遺跡数が爆発的に増加し、小丸山遺跡・駒首潟(こまくびがた)遺跡(江南区)、沖ノ羽(おきのは)遺跡(秋葉区)など有力者が居住する集落が出現します。その多くは、沖積地の微高地に立地し、河川や潟を水上交通として利用していました。


駒首潟遺跡出土土器

古代の生産遺跡

官営の須恵器や土師器を生産した窯や製鉄遺跡が丘陵部に築かれたほか、海岸部には製塩遺跡が多数存在します。特に新津丘陵には草水町2丁目窯跡(秋葉区)や金津丘陵製鉄遺跡群があり、蒲原郡の手工業の中心地であったと考えられます。

古代の土器生産

新津丘陵には、草水町2丁目窯跡(秋葉区)などの須恵器・土師器を生産した窯跡がみつかっています。杯(つき)と呼ばれる食事につかう容器のほか、大甕や壺などの生活用具を生産していたようです。中には珍しい水鳥の形をした製品もあり、生活用品でなく特別に作られたものと考えられます。


須恵器窯跡資料

製塩土器

新潟市内の海岸部には出山(でやま)遺跡(北区)などの製塩遺跡があります。また大藪(おやぶ)遺跡(西区)など、海岸部から少し内陸に入ったところでも製塩土器が出土します。市内で出土する製塩土器の多くがバケツのような形をしており、外側には粘土の輪積みが残ったままのつくりとなっています。これらの遺跡で作られた塩は、地元で消費されたほか現在の秋田県や宮城県の城の造営現場へ送られていたことが文献からわかっています。


大藪遺跡出土製塩土器

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