地名の由来

最終更新日:2012年6月1日

秋葉区の地名

 「秋葉区」は、平成17年3月の大合併により新潟市となった「旧新津市」と「旧小須戸町」で構成された区です。
 ここでは、「新津」や「小須戸」の地名について、そして「秋葉」の地名について掲載します。

目次

新津(にいつ)の由来

 新津はその名のとおり、「新しい津」として寛治三年(1089年)の「越後絵図」には河口に面して描かれていますが、この地を拠点に栄えてきたのは、新津城を居館とした新津氏が起源であると思われます。
 新津氏は清和天皇の流れをくむ、いわゆる「清和源氏」です。清和源氏の嫡流は、八幡太郎義家の子孫である頼朝・義経たちです。
 新津氏は、義家の弟の新羅三郎義光の流れです。義光の子義業は常陸源氏である佐竹氏の祖であり、義清は甲斐源氏である武田氏の祖になりました。
 次の盛義は信濃源氏である平賀氏の祖となり、これが新津氏の流れになります。

新津氏の系図(新津市史より)

 盛義の子有義の流れをくむ越後の平賀氏は、有義の子資義が金津保地頭職になり、金津に住み「金津」を名乗りました。その後、資義の子信資が新津西域に城(新津城)を造って住み、新津三郎・越前守を名乗りました。これが新津氏のはじまりです。
 戦国時代に入ると新津氏は上杉謙信に属し、謙信の後を景勝が継ぐと景勝の下で数々の武功を上げ、景勝が会津120万石に国替えになると、新津氏も景勝に従って行き、15代秀祐は2,100石の知行取りになりました。
 関が原の戦いの後、上杉家が米沢30万石に移ると700石に減りましたが、16代続家のとき300石追加され、1,000石になりました。しかし、その後主家である上杉家の相続問題で、藩主上杉綱憲のとき15万石に半減されましたので、それに伴い17代続久にとき半知され500石になり、幕末の廃藩まで続きました。
 明治戊辰戦争のとき、24代続宗は米沢藩軍として越後に出兵し、14代勝資以来初めて新津氏の当主として故郷新津に凱旋しましたが、「長岡城の戦い」で39歳の若さで戦死しました。その子続忠は、明治15年11月、14代勝資が持っていた掘出神社のご神体を返還しています。

金津保について

 平賀資義が「金津保地頭職」として入部した「金津保」の領域は、新津丘陵北部周辺部(秋葉区の全域と五泉市・田上町の一部)を中心としますが、「横越島」(亀田郷)も含まれたと推測されています。

小須戸(こすど)の由来

 小須戸の地名は「洲処(すど)・洲所(すど)」で寄り州を意味しているといわれます。また「越戸(こすど)」で川を越すところであるという考え方もあり、慶長10(1605)年の新発田藩史料に「小簾戸(こすど)」とも記されています。歴史学者吉田東伍博士は、その著「大日本地名辞書」の小須戸の項に「この町は近世の開置なるべし、古書に聞見せず」と記しています。確かに信濃川畔の小須戸村の町立は近世からでしょうが、新発田藩の重臣溝口伊織家の文書「御領内見分之書付」によれば、寛文7(1667)年前後すでに小須戸村は戸数110軒、人口824人とかなり繁華な地として記されています。このような村がこのころ勃然として生じたのではなく、その淵源は近世を隔たるさらに遠い時代からあったことは疑いありませんが、伝承ではなくてその起源を確実に記した史料を見当てることは今はできません。結局、「すど」は民俗学者・小林存が言っているように、川の寄り州としてできた微高地の集落であるとも考えられます。
出典
「「新潟県地名考(五十嵐秀太郎著)」
「大日本地名辞書(吉田東伍著)」
「新潟地名新考(小林存著)」

秋葉(あきは)の由来

 宝暦11(1761)年、新津町の大庄屋である桂六郎左衛門誉春(たかはる)は新発田藩から田家(たい)山を与えられ、宝暦13(1763)年9月、京都からご神体を勧請し、この田家山に秋葉神社(あきはじんじゃ)を建立しました。
 当時、新津町では「だしの風」により、たびたび火災に見舞われていました。秋葉神社は火防(ひぶせ)の神である秋葉大権現を祭る神社であり、田家山はその後、秋葉山(あきはやま)と呼ばれるようになりました。

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